TOCが教える地方スーパー再生の全戦略 プロローグ – 「見晴らし台からの決意」

シェアする

帰郷の風景

雪が舞い始めた山道を、美咲は黙々と登り続けた。

東京から帰省して三日目。春でもないのに、なぜか桜の香りが鼻をくすぐる。昔、父に連れられて何度も登った「まるやまの見晴らし台」。今日は一人で来た。この光景を見たくて、いや、見なければ決断できないような気がして。

城山美咲、32歳。東京の大手広告代理店で七年間、アカウントプランナーとして数々のヒット企画を手掛けてきた。半年前に念願のチームリーダーに昇進したばかり。その矢先の、父の脳梗塞。

美咲の携帯が鳴った。大学時代の恩師、高橋教授からだった。

「あぁ、高橋先生…はい、おかげさまで父は一命を取り留めました。ただ、右半身の麻痺が残っていて…」

テレビで見るような、雪をかぶった青い山々が、美咲の視界に広がっていた。ふるさとの山里を囲むように連なる山脈。その合間を縫うように町が点在し、田畑が広がっている。

「そうね、元々小さな町だから、スーパーが一軒なくなるだけでも、特に高齢者の方は大変…でも、私には…」

電話の向こうで高橋教授は黙って美咲の言葉を待っている。

「TOCですか?そうですね…大学のゼミ以来、随分と遠ざかっていました。忙しさにかまけて…」

美咲は足元の雪を踏みしめた。十年以上前、大学時代に夢中になった「制約理論(Theory of Constraints)」。限界や制約を見つけ、それを逆に活かす思考法。当時は純粋に理論として学んでいたが、今の自分には実践の場がある。

「先生、正直言って迷っています。このまま東京に戻るべきか、それとも一時的にでも家業を継ぐべきか…」

東京の会社からは最大で六ヶ月の休職が認められている。その間に父の回復を待ち、家業の経営を立て直すことができるだろうか。それとも、専門の経営者に任せるべきか。いや、八千万円の負債を抱える赤字経営の地方スーパーを引き受ける人など、そもそも存在するのだろうか。

「…わかりました。ありがとうございます。ええ、また連絡します」

電話を切った美咲は、深く息を吐いた。白い息が冬の空気に溶けていく。

麓には「まるやまスーパー」がある。父、城山正彦が35年前に創業し、地域とともに歩んできた小さなスーパーマーケット。かつては地域の台所として栄えたが、大型ショッピングモールの進出や、人口減少によって客足は遠のき、赤字が続いていた。

父は事態を楽観視している——あるいは、していたふりをしている——が、銀行からの融資はもう限界だった。

恩師との再会

「制約理論か…」

美咲はつぶやいた。大学時代のゼミで高橋教授から学んだTOCは、「システムの目標達成を妨げるのは、最も弱い制約だけである」という考え方に基づいている。あらゆるシステムには必ず少なくとも一つの制約があり、それを見つけて管理することが、全体最適への道だという理論だ。

当時、美咲はその理論の明快さに魅了されていた。しかし広告代理店に入社してからは、目の前の締め切りに追われ、TOCの思考法を活かす余裕はなかった。

高橋教授は電話の中で言った。

「美咲さん、あなたは『制約』を『問題』だと見なしているようだね。でも覚えているかい?制約は問題ではなく、システムを管理するためのレバレッジポイントなんだよ」

美咲は町を見下ろしながら考えた。

まるやまスーパーの制約は何だろう。資金不足?人材の高齢化?大型店との競争?いや、それらはすべて「制約」ではあるが、本質的な制約、システム全体を律する「コア制約」は何だろうか。

そして、自分自身の制約は?

決断の瞬間

見晴らし台の一番奥まで来ると、視界が一気に開けた。

山々に囲まれた盆地。中央を流れる川。点在する集落。そして町の中心部にある「まるやまスーパー」の赤い屋根が、かすかに見える。

美咲は胸の内で問いかけた。

「私は何のために東京で働いてきたのだろう?」

シビアな競争社会の中で、自分の価値を証明するため?より大きな舞台で能力を発揮するため?それとも単に、この町を出たかったから?

昨日、病室で父は言った。

「無理して戻ってこなくていい。お前には東京で輝く未来がある。この店はいずれ閉めるつもりだった」

その言葉が、逆に美咲の心に火をつけた。

もし、まるやまスーパーが単なる小さな店ではなく、地域の暮らしを支える大切な存在だとしたら?もし、自分のキャリアで培ったスキルとTOCの思考法を組み合わせれば、再建の可能性があるとしたら?

「制約は最大の武器になる…」

高橋教授の言葉が蘇る。

美咲はスマートフォンを取り出し、会社の上司にメールを送った。

「休職期間を最大の6ヶ月いただきたいと思います。父の病状と家業の再建のため…」

送信ボタンを押した瞬間、大粒の雪が美咲の頬に落ちた。冷たいはずなのに、どこか温かさを感じる。

東京と地方の間で

山を下りながら、美咲は考えた。

六ヶ月。百八十三日。これが自分に与えられた時間だ。六ヶ月で何ができるのか。そもそも六ヶ月で事業再生は可能なのか。

東京の生活を一時的に手放すことへの不安と、生まれ育った町と家業を守りたいという思いが交錯する。

昨日、東京の同僚からラインが来ていた。

「大変だね。早く戻ってこないと、プロジェクト全部持っていっちゃうよ〜」

冗談めかしたメッセージだが、広告業界の厳しさを知る美咲には、冗談とは思えなかった。アカウントプランナーとしての座は、簡単に奪われる。特に、チームリーダーへの昇進直後だ。

一方で、まるやまスーパーには八千万円の負債があり、月商わずか三百万円。高齢化した従業員たちは変化を恐れ、銀行は追加融資に消極的。四方八方から圧力がかかっている。

「六ヶ月。それが私の制約だ」

美咲は足を早めた。頭の中では、すでにTOCの考え方を使った分析が始まっていた。