呼吸と味わう人生 第4章:厨房への第一歩

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4-1:思いがけないチャンス

「おはようございます」

木曜日の午後二時、金子は緊張した面持ちで「おかん」に入った。今日は初めて厨房に立つ日だ。前日に山田から電話があり、メニューの確認と準備について詳しく指示を受けていた。

「やあ、来たか」

山田が出迎え、すぐに厨房へと案内した。金子は慎重に厨房に足を踏み入れた。これまでは外から眺めるだけだった場所。広くはないが、すべての調理器具が整然と配置され、効率的に動けるよう工夫されている。

「まず、これを着てくれ」

山田が渡したのは、白い調理着とネクタイ型の白いスカーフだった。更衣室で着替えた金子は、少し照れくさそうに厨房に戻ってきた。

「似合ってるよ」

山田の言葉に、金子は照れながらも嬉しさを感じた。調理着を着るのは大学の料理部以来だった。

「では、今日のメニューを確認しよう。親子丼、出汁巻き玉子、焼き鳥三種、冷奴、そして枝豆と煮物。これが基本だ」

金子は真剣に頷いた。

「調理器具の場所はだいたいわかるかな?」

「はい、この間確認させていただきました」

「よし、じゃあまず材料の準備から始めよう。開店まであと三時間ある」

金子は山田の指示に従い、冷蔵庫から材料を取り出し始めた。鶏肉、玉ねぎ、卵、豆腐…基本的な食材が揃っている。村上なら、これらを使って素晴らしい料理を作り出すのだろう。果たして自分にできるだろうか。不安と期待が入り混じる気持ちだった。

「鶏肉の下処理からやってみるか」

山田の声で我に返った金子は、まな板に向かった。「おかん」の親子丼に使う鶏肉は、皮付きのもも肉。まずは余分な脂と筋を取り除き、食べやすい大きさに切り分ける。

金子は集中して作業を進めた。包丁を握る手に力が入りすぎないよう意識し、沢村から教わった呼吸法を思い出す。「今、ここ」という言葉を心の中で繰り返しながら、一切れ一切れを丁寧に切っていく。

「おお、包丁さばきがいいね」

山田が感心したように言った。

「ありがとうございます。でも、村上さんと比べれば…」

「いや、基本がしっかりしている。どこで学んだんだ?」

「独学です。料理動画を見たり、本で勉強したり…」

「独学でこれはすごいよ」

山田の言葉に、金子は少し自信を持った。次に出汁巻き玉子の準備に取りかかる。これは村上の代表作の一つ。簡単なようで奥が深い料理だ。

「出汁は朝、佐藤さんが引いておいてくれたものがあるよ」

山田が冷蔵庫から出汁の入った容器を取り出した。金子は一口飲んでみる。澄んだ琥珀色の出汁は、昆布と鰹節の風味が絶妙なバランスで調和していた。

「美味しい…」

「そうだろう?佐藤さんも相当な腕前だからね」

金子は卵をボウルに割り入れ、泡立てないように優しくほぐし始めた。卵と出汁の比率、砂糖と塩の量、そして火加減…村上の作る出汁巻き玉子を思い出しながら、できるだけ忠実に再現しようと努めた。

「金子さん!」

準備に集中していると、ナナの声が聞こえた。彼女はシフトが早く、既に制服姿で厨房を覗き込んでいた。

「あ、ナナさん、こんにちは」

「調理着、似合ってますね!今日からですよね、厨房デビュー」

「ありがとう。ちょっと緊張してるけど…」

「大丈夫ですよ!私、金子さんの料理、楽しみにしてます!」

ナナの明るい声援が、金子の緊張をほぐしてくれた。

三時間の準備時間はあっという間に過ぎ、開店の時間が近づいてきた。金子は親子丼のタレを仕込み、焼き鳥の串打ちを済ませ、出汁巻き玉子の試作も完成させていた。

「さて、開店前に君の出汁巻き玉子を味見してみようか」

山田が言い、金子の作った出汁巻き玉子を一切れ取って口に入れた。

「うん、なかなかだ。卵のふんわり感と出汁の染み具合がいい。村上のとはまた違った味わいだけど、これはこれで美味しい」

その評価に金子は安堵した。村上と同じクオリティには届かないが、認めてもらえたことが嬉しかった。

「よし、開店するぞ!金子くん、最初は私が横について教えるから、焦らないように」

「はい、よろしくお願いします」

開店後、最初のうちは客足もまばらで、金子は落ち着いて調理に集中できた。最初の注文は「冷奴」。シンプルな料理だが、豆腐の切り方、醤油の量、薬味の配置など、細部にわたるこだわりが美味しさを左右する。金子は丁寧に仕上げ、山田のチェックを受けてから提供した。

「美味しい!」という客の声が厨房まで届き、金子は静かに喜びを感じた。

次第に客足が増え、注文も多様になってきた。親子丼、焼き鳥、煮物…同時進行での調理が必要になる。ここで家庭料理との大きな違いを実感した。家では一品ずつ作ればいいが、プロの厨房では複数のオーダーを同時に進行させなければならない。

「金子くん、三番テーブルの親子丼と、カウンターの焼き鳥!」

山田の声に応え、金子は一瞬頭の中で段取りを整理した。親子丼は火を通すのに時間がかかるから先に着手し、その間に焼き鳥を焼く…。

「わかりました!」

集中して調理を進める。出汁と醤油と砂糖を合わせたタレを鍋に入れ、火にかける。沸騰したところに下処理済みの鶏肉を入れ、アクを取り除きながら煮ていく。その間に焼き鳥の準備をし、グリルに並べる。

「焼き鳥、できました」

カウンター席のお客さんへの焼き鳥が先に完成した。山田が確認し、「いいね」と言って運んでいく。

親子丼の鶏肉が程よく煮えたところで、玉ねぎを加える。半透明になったところで溶き卵を流し入れ、半熟状態で火を止める。これをご飯の上に盛り付け、三つ葉を散らす。

「親子丼、できました」

山田はこちらも確認し、頷いた。「いい仕上がりだ」

その言葉に、金子は密かな自信を感じた。このリズムを保てれば、何とかなるかもしれない。

開店から二時間が経過した頃、一人の常連客がカウンター席に座った。田中が声をかける。

「いらっしゃいませ、村松さん」

「おう、今日は村上さんはいないのか?」

「はい、ちょっと入院されていまして…」

「そうか、大変だな」

その会話が厨房まで聞こえてきた。常連客の多くは村上の料理を目当てに来ているのだろう。プレッシャーを感じる。

「村松さんからの注文です。村上さんの出汁巻き玉子と親子丼です」

田中が厨房に伝えに来た。村上の代表作を求められたのだ。金子は一瞬たじろいだが、すぐに心を落ち着かせた。

「承知しました」

沢村から教わった呼吸法を実践しながら、金子は慎重に調理を始めた。常連客の舌は確かだ。少しでも誤魔算があれば、すぐに気づかれるだろう。

「丁寧に…正確に…」

金子は自分に言い聞かせながら、卵を溶き、出汁を合わせ、卵焼き器に流し入れる。弱火でじっくりと焼き上げ、巻き上げる…。

「出汁巻き玉子、できました」

山田は仕上がった出汁巻き玉子を一切れ試食し、「いいね」と頷いた。

次いで親子丼も丁寧に仕上げる。今日何度目かの親子丼だが、常連客のために特に神経を使った。

「お待たせしました、村松さん。出汁巻き玉子と親子丼です」

田中が料理を運び、金子は厨房から客の反応をうかがった。村松は一口食べると、少し驚いた表情になり、田中に何か尋ねている。田中はこちらを指差し、何か説明しているようだ。

「どうでしょう…」

金子は不安になった。口に合わなかったのだろうか。しかし、その後の村松の表情は柔らかくなり、頷いている。安堵の息を吐く金子。

閉店後、山田が金子に声をかけた。

「村松さんが言ってたよ。『村上とは違うが、これはこれで美味しい』って」

「そうですか…!」

「それから、『新しい料理人は誰だ』って聞かれたんだ。『実は新人バイトなんですよ』って言ったら、驚いてたよ。『才能あるね』って」

金子は思わず顔を赤らめた。プロの料理人ではない自分の料理を、常連客に認めてもらえたことが、この上ない喜びだった。

「金子くん、正直に言うと、君は料理の才能がある。もっと早く言ってくれれば良かったのに」

山田の言葉に、金子は照れながらも応えた。

「いえ、私はただ料理が好きなだけです。プロには程遠くて…」

「いや、今日の仕事ぶりを見れば、十分やっていける。村上が戻ってくるまでの間、厨房を任せたい。週三日、木曜と日曜と…そうだな、火曜も頼めるか?」

「え?本当ですか?」

「ああ。メニューは限定でいい。君が自信を持って出せるものだけで」

「ありがとうございます!頑張ります!」

思いがけない展開に、金子の心は高揚していた。料理への情熱を形にできる機会を得たのだ。この一週間、精一杯準備して臨もう。

「ところで、山田さん」金子は気になっていたことを尋ねた。「村上さんの容体はどうですか?」

山田の表情が少し曇った。

「実は、もう少し長引きそうなんだ。右半身の麻痺があって、リハビリが必要らしい。医師の診断では、少なくとも二ヶ月は復帰が難しいと…」

「そうですか…」

村上の不在が長期化することは、「おかん」にとって大きな問題だ。しかし同時に、金子にとっては厨房で料理を作る経験を積むチャンスでもあった。

「でも、佐藤さんが週に三日は来てくれるし、君が三日。なんとかつなぎとしてやっていけるよ」

「はい、私にできることは精一杯やります」

帰り際、山田は金子の肩を叩いた。

「今日はお疲れ様。明日から『おかん』の料理人として、よろしく頼むよ」

「料理人」という言葉が、金子の胸に響いた。四十一歳にして、新たな一歩を踏み出すことになった。それは偶然と必然が織りなした、思いがけないチャンスだった。

4-2:プロの現場

「締め出汁は昆布と鰹節の比率を八対二にして、火を入れる直前に…」

金子は開店前の静かな厨房で、メモを取りながら佐藤から指導を受けていた。佐藤は週三日「おかん」で調理を担当するベテラン料理人。「おかん」のメニューに慣れるため、金子は積極的に佐藤から技術を学ぼうとしていた。

「ありがとうございます、佐藤さん。教えていただいて」

「いや、山田から聞いたよ。君、独学でここまでやったんだって?感心するよ」

佐藤の言葉に、金子は謙虚に頭を下げた。

「まだまだ未熟者です。佐藤さんや村上さんのような熟練の技には到底及びません」

「修行の期間は確かに違うが、才能はある。それに何より、料理への愛情を感じる」

佐藤はそう言って、出汁巻き玉子を作る手本を見せてくれた。細部までの気配りが違う。卵液を流し入れるタイミング、火加減の微調整、巻き簾の使い方…。プロの技に金子は見入った。

「今日は君の日だけど、最初の一時間だけ手伝うよ。わからないことがあれば、遠慮なく聞いてくれ」

「ありがとうございます!」

先週の木曜日、日曜日と続けて厨房に立った金子は、今日で三日目。毎回、新しい発見と課題があった。特に困ったのは、複数のオーダーの同時進行だ。家庭料理では一品ずつ集中して作れるが、プロの現場では五品も六品も同時に進行させなければならない。タイミングの調整が難しい。

また、真新しいのは食材の質だった。「おかん」で使用する食材は、スーパーで買えるような一般的なものではなく、専門の業者から仕入れる高品質なものばかり。特に肉類は「ブランドポーク・シルキー」や「青森シャモロック」など、金子が名前すら知らなかった高級食材もあった。

「これが『ブランドポーク・シルキー』か…」

先週、初めて触れた時の感動を思い出す。肉質のきめ細やかさ、適度な脂の乗り、包丁を入れた時の感触…どれも家庭で使う豚肉とは明らかに違っていた。そんな素晴らしい食材を扱えることが、金子にとって新たな喜びだった。

「金子さん、今日のおすすめは決まりましたか?」

開店準備中、ナナが厨房を覗き込んできた。先週から、金子の作る料理を「本日のおすすめ」として宣伝することになっていた。

「そうだな…今日は『鶏肉と春野菜の煮物』にしようかな」

「わかりました!メニュー表に書いておきますね」

ナナは明るく答え、ホールの準備に戻っていった。彼女は金子の料理を率先して宣伝してくれ、客にも「新しい料理人が作った特別メニュー」と紹介してくれていた。そのおかげで、少しずつ金子の料理のファンも増えつつあった。

開店時間になり、ドアが開く。金子は深く息を吸い、気持ちを引き締めた。佐藤の見守る中、金子は厨房の指揮を執る。

「いらっしゃいませ!」

田中の声がし、最初の客が入ってきた。程なくして注文が入る。

「金子さん、カウンター席、冷奴と焼き鳥の盛り合わせです」

「はい、承知しました」

金子は落ち着いて調理に取りかかった。冷奴は豆腐を均等に切り、丁寧に盛り付ける。焼き鳥は事前に串打ちしておいたものをグリルで焼く。火加減を調整しながら、むらなく焼き色がつくよう心掛ける。

「ほら、もう少し強火の方がいいぞ」

佐藤がアドバイスをくれる。確かに、家庭のグリルよりも火力が強く、調整が難しい。

「ありがとうございます」

金子は火力を上げ、焼き鳥をグリルの中で回転させた。程よい焼き色が付き、香ばしい匂いが立ち込める。

「できました」

「おっ、いい感じだ」

佐藤は頷き、冷奴と焼き鳥の盛り合わせを確認した。金子の盛り付けは丁寧で、見た目にも美しい。

「田中くん、カウンター席の注文です」

佐藤が声をかけ、田中が料理を受け取っていった。

その後も注文が続く。親子丼、出汁巻き玉子、日替わりの煮物…。金子は集中して、一つ一つ丁寧に作っていく。佐藤は一時間ほど手伝った後、「あとは任せたよ」と言って帰っていった。

昼の部は比較的スムーズに進んだ。金子も三日目ともなると、「おかん」の厨房の動線にも慣れ、効率よく動けるようになってきた。しかし、本当の試練は夜の部だった。

午後六時を過ぎると、客足が一気に増え、厨房は戦場のような緊張感に包まれる。

「金子さん、四番テーブル、親子丼二つと焼き鳥の盛り合わせ!」 「カウンター席からは煮物と冷奴!」 「七番テーブルからは出汁巻き玉子と…」

次々と入る注文に、金子は頭の中で優先順位を整理する。調理時間の長いものから着手し、その合間に素早く済むものを挟む…。理論は分かっていても、実際にやるとなると難しい。

「焦らず、一つずつ」

自分に言い聞かせながら、金子は集中して調理を続けた。しかし、注文が重なると、どうしても料理の提供が遅れがちになる。

「金子さん、四番テーブルの親子丼、まだですか?」

ナナが少し焦った様子で尋ねてきた。

「あと少しで…!」

金子は急いで親子丼の仕上げに取りかかった。鶏肉はすでに煮えているが、卵を流し入れるタイミングが重要だ。急いでいるからこそ、慎重に…。

「はい、できました!」

ようやく二つの親子丼が完成した。ナナがそれを受け取り、客席へと運んでいった。

「少し時間がかかりすぎるな…」

山田が厨房に入ってきて、静かに言った。批判ではなく、助言のつもりだろうが、金子にはプレッシャーに感じられた。

「すみません、もっと速く…」

「いや、品質は落とさなくていい。でも、効率化できる部分は考えてみるといい」

「はい…」

山田の言葉に、金子は深く考え込んだ。確かに家庭料理と違い、プロの厨房では効率も重要だ。しかし、効率を上げようとして品質が落ちては元も子もない。

夜の混雑ピークを過ぎたところで、金子は少し息をつくことができた。ふと気づくと、手が微かに震えている。緊張と集中の連続で、体が反応しているのだろう。

「水でも飲んで一息入れろ」

山田がペットボトルの水を差し出してくれた。

「ありがとうございます」

水を飲みながら、金子は今日の反省点を頭の中で整理した。まだまだ改善すべき点は多い。特に複数の料理の同時進行をもっと効率化したい。

閉店後、片付けを終えた金子は、山田と向き合って今日の反省会をしていた。

「今日の煮物は評判が良かったよ」

「ありがとうございます」

「しかし、注文が重なった時の対応は、まだ改善の余地がある。村上がいれば、あの人数でも一人でこなしていたからな」

「はい…村上さんのような熟練の技には、まだまだ及びません」

「いや、それは当然だ。村上は二十年以上の経験がある。君はまだ始めたばかりだ」

山田の言葉に、金子は少し救われた思いがした。

「それに、君の料理は確実に『おかん』の新しい魅力になりつつある。村上とは違う味わいだが、それはそれで価値がある」

「本当ですか?」

「ああ。今日も何人かの客が『新しい料理人の料理が美味しい』と言ってくれていたよ」

その言葉に、金子は少し自信を持つことができた。

「でも、まだまだ学ぶべきことは山ほどあります。特に高級食材の扱いや、複数オーダーの同時進行など…」

「そうだな。でも、それは経験を積むしかない。幸い、君には才能と情熱がある。あとは経験だけだ」

帰り道、金子は今日の厨房での出来事を振り返りながら歩いた。プロの現場は厳しい。しかし、その厳しさの中に喜びがあることも感じていた。自分の作った料理が誰かの笑顔につながる…それは何物にも代えがたい充足感だった。

「明日からもっと効率的に…」

金子は頭の中で改善策を考え始めた。料理のクオリティを維持しながら、スピードを上げる方法。予め準備できるものは準備しておく。複数の料理を同時に進行させる段取りを整理する。時間のかかる工程と素早くできる工程を組み合わせる…。

実家に帰ると、両親はすでに寝ていた。静かに自室に入った金子は、ノートを取り出し、今日の反省点と明日への改善策を書き始めた。

プロの厨房は想像以上に厳しく、困難なことも多い。しかし、金子の胸には確かな手応えと希望があった。この道を進み続ければ、いつか本当の「料理人」になれるかもしれない…。そんな思いを胸に、金子は眠りについた。

4-3:失敗と挫折

「すみません、この親子丼、前回より味が薄いような…」

カウンター席に座った常連客からの一言に、金子は動揺した。確かに今日は少し調子が出ず、味にばらつきが出ていることは自分でも感じていた。

「大変申し訳ございません。すぐに作り直します」

金子は深く頭を下げ、新しい親子丼を作り始めた。厨房に立って二週間が経ち、徐々に仕事には慣れてきたものの、まだ安定感に欠ける部分があった。特に味の均一性という点では、課題を感じていた。

同じレシピ、同じ材料、同じ手順で作っているはずなのに、日によって、あるいは同じ日の中でも微妙に味が変わってしまう。プロの料理人として最も基本的な部分で、まだ技術不足を感じることが多かった。

「お待たせしました。作り直しました親子丼です」

金子は丁寧に盛り付けた親子丼を田中に渡した。

「大丈夫か?」田中が小声で尋ねた。

「ああ…ちょっと味の調整ミスで…」

「気にするな。俺たちも最初は皆そうだった」

田中の言葉に、金子は感謝の思いで頷いた。

その日は全体的に調子が悪かった。出汁の引き方もいつもと同じのはずなのに、なぜか風味が弱く、焼き鳥も焼き加減にむらがあった。さらに、混雑時間帯になると、提供スピードが追いつかなくなる。

「金子さん、六番テーブルのお客様が『注文してから時間がかかりすぎる』と…」

ナナが申し訳なさそうに伝えてきた。

「すまない…今、急いでいるところだ」

金子は額に汗を浮かべながら、手早く調理を進めようとした。しかし、急げば急ぐほど小さなミスが増え、結果的に余計な時間がかかってしまう悪循環に陥っていた。

「深呼吸…今、ここ…」

沢村から教わった呼吸法を思い出し、一度立ち止まって深呼吸する。少し冷静さを取り戻し、改めて目の前の作業に集中した。

閉店後、疲れ切った金子は厨房の隅に座り込んでいた。今日は特に大変な一日だった。料理の味にばらつきがあり、提供も遅れ、客からのクレームも複数あった。自分の未熟さを痛感させられる日だった。

「お疲れ様」

山田が入ってきて、金子の隣に座った。

「山田さん…今日は本当にすみませんでした。クレームを何件も…」

「まあ、そういう日もあるさ」

山田は穏やかに言ったが、表情には少し心配の色が浮かんでいた。

「正直に言うと、このままでは厳しいな」

その言葉に、金子は胸が締め付けられる思いがした。

「村上が戻ってくるまでは、何とか凌いでいきたいんだが…」

「私の腕がまだまだで…」

「いや、君の料理は味そのものは良い。問題は安定性とスピードだ」

山田は率直に指摘した。それは批判ではなく、現実を伝えようとする気遣いだった。

「厨房は戦場のようなものだ。忙しい時間帯に一人で十五〜二十食を同時に回さなければならない。プロとアマチュアの差は、そういう極限状況でも品質を保てるかどうかだ」

金子は黙って聞いていた。山田の言うことは理解できる。しかし、そのギャップを埋めるのは容易ではない。

「村上も最初から完璧だったわけじゃない。十五年以上かけて今の技術を身につけたんだ」

「でも、私にはそんな時間はありません。村上さんが戻ってくるまでの数ヶ月で…」

「そうだな…」山田も難しい表情になった。「でも、焦らなくていい。一歩一歩進むしかない」

その言葉には優しさがあったが、同時に現実的な厳しさも含まれていた。このままでは「おかん」の品質を維持できない。それは客離れにもつながる。

「何か…改善策はありますか?」

金子は少し震える声で尋ねた。

「そうだな…まず、メニューをもっと絞ってみてはどうだ?君が確実に安定して作れるものだけに限定する。それから、事前準備をもっと徹底するといい」

「はい…」

「それと、もう一つ提案があるんだ」

山田は少し言いにくそうに続けた。

「ナナが君の料理に興味を持っているみたいでね。彼女を厨房のヘルプとして少し教育してみないか?」

「ナナさんを?」

「ああ。彼女も将来、料理の道に興味があるらしい。基本的な下準備や盛り付けなどを手伝ってもらえれば、君の負担も減るだろう」

その提案は意外だったが、確かに理にかなっていた。一人で全てをこなすのは限界がある。サポートがあれば、もっと効率的に動けるかもしれない。

「わかりました。ぜひお願いします」

山田は安堵の表情を浮かべた。

「よし、決まりだ。明日からナナに基本を教えてみてくれ。君が教えることで、自分自身も整理できるはずだ」

家に帰る途中、金子は今日の失敗を振り返っていた。確かに自分はまだ未熟だ。プロの料理人として必要な技術や経験が足りない。しかし、諦めるわけにはいかない。

自分の親子丼に「前より薄い」と言われた時の挫折感。料理の提供が遅れていると指摘された時の焦り。そして何より、山田に「このままでは厳しい」と言われた時の絶望感。それらは全て、自分の成長のための糧にしなければならない。

「明日からは…もっと計画的に」

金子は決意を新たにした。効率的な段取り、味の安定性、スピードアップ。課題は山積みだが、一つずつ克服していくしかない。

実家に帰ると、母が起きて待っていた。

「おかえり。遅かったわね」

「ただいま…」

「どうしたの?元気ないわね」

母の優しい声に、金子は弱音を吐きそうになったが、グッと堪えた。

「ちょっと、今日は大変な日で…」

「そう…料理って難しいのね」

「うん、プロの世界は厳しい」

「でも、誠なら大丈夫よ。子供の頃から、何でも諦めない子だったもの」

母の言葉に、金子は少し勇気づけられた。確かに自分は、一度決めたことは諦めない性格だった。大学の料理部でも、皆が投げ出すような難しいレシピに挑戦し続けた経験がある。

「ありがとう、母さん」

金子は微笑んで答えた。

自室に戻り、金子はノートを広げた。今日の失敗を詳細に記録し、改善点を洗い出す。味のばらつきを防ぐためには、より正確な計量と手順の標準化が必要だ。スピードアップのためには、効率的な動線と、事前準備の徹底。そして、ナナにどのようにして基本を教えるか…。

考えているうちに、少しずつ前向きな気持ちが戻ってきた。失敗は成長の糧になる。プロの料理人への道は険しいが、一歩一歩進んでいこう。

「よし、明日こそは…」

金子は決意を固め、明日への準備を始めた。

4-4:瞑想の継続

「深く吸って…止めて…そして、ゆっくりと吐く…」

土曜の午前、金子は沢村道場の畳の上で正座していた。周囲には十人ほどの参加者がおり、沢村の静かな声に導かれて瞑想を行っていた。

厨房に立ち始めて三週間が経った今、金子にとってこの瞑想の時間は欠かせないものになっていた。特に先週の挫折感を味わった後、心身のバランスを整える必要性を強く感じていた。

「皆さん、今日は『集中と開放』をテーマに実践していきましょう」

沢村は穏やかな声で説明を続ける。

「私たちの日常は、往々にして『集中』と『散漫』の間を行ったり来たりしています。仕事に集中している時もあれば、気づけば全く別のことを考えている時もある」

金子は深く頷いた。特に厨房での調理中、時々集中力が途切れて、小さなミスにつながることがあった。

「瞑想の目的の一つは、自分の意志で『集中』できるようになること。そして同時に、必要な時に心を『開放』して、柔軟になれることです」

参加者たちは静かに聞き入っていた。

「まずは、呼吸に集中する実践から始めましょう。息を吸う時、吐く時、その間の微細な変化に意識を向けてください」

金子は目を閉じ、呼吸に意識を集中させた。鼻から入ってくる空気の感覚、胸が膨らむ動き、そして息を吐く時の解放感…。細部に意識を向けることで、心が静まっていくのを感じた。

「そう、その調子です。呼吸に集中することで、『今、ここ』という瞬間に立ち戻れるのです」

沢村の声が遠くから聞こえてくるようだった。

瞑想の時間が終わり、茶話会の時間になった。参加者たちは緑茶を飲みながら、穏やかに会話を交わしていた。

「金子さん、最近はいかがですか?」

沢村が金子に声をかけた。

「おかげさまで、少しずつですが料理の仕事に慣れてきました。でも、まだまだ課題も多くて…」

「それは当然のことです。プロの世界は一朝一夕では到達できない」

沢村の言葉には、自身の経験に基づく重みがあった。

「特に味のばらつきが気になっていて…同じ材料、同じレシピなのに、日によって微妙に変わってしまう」

「なるほど。それは料理人にとって永遠のテーマかもしれませんね」沢村は微笑んだ。「完全に同じ味を再現することは、実は非常に難しい」

「村上さんのような熟練の料理人は、どうやって安定した味を出しているんでしょうか」

「経験と感覚ですね。材料の状態を見極め、その日の温度や湿度も考慮して、微調整しているのです」

金子は熱心に聞き入った。

「それから、もう一つ大切なのは『集中力』です。料理も瞑想も、『今この瞬間』に全神経を集中させることが重要なのです」

「集中力…確かに、厨房で慌てると、途端に判断力が鈍ってしまいます」

「そうです。瞑想を続けることで、プレッシャーの中でも心を落ち着けて集中できるようになります」

そこで、突然別の女性が会話に加わってきた。

「すみません、お話し中に」

「いえ、どうぞ」沢村が微笑んだ。「金子さん、こちらは高橋恵さん。半年ほど前から道場に通っている方です」

「はじめまして、金子誠です」

金子は丁寧に会釈した。高橋恵は三十代後半くらいの女性で、落ち着いた雰囲気を持っていた。

「高橋です。実は今のお話を聞いていて…私も似たような経験があるので」

「そうなんですか?」

「はい、私は元々大手企業の広報部で働いていたのですが、個人的な事情で退職しました。その後、心の整理をつけるために瞑想を始め…今は出版社で編集者として再出発したところなんです」

「転職されたんですね」

「そうなんです。四十歳近くでの転職は不安だらけでしたが、瞑想のおかげで少しずつ自信を取り戻せました」

高橋の話に、金子は強く共感した。年齢的にも近く、キャリアチェンジという点でも似た境遇だった。

「私も四十一歳で、印刷会社から居酒屋の料理人に…まあ、まだアルバイトですが」

「そうだったんですね。私たち、似た境遇ですね」

高橋は優しく微笑んだ。

「料理というと…食文化にも興味があるんですか?」

「はい、特に和食に」

「実は私、以前食品メーカーのプロモーションも担当していて、食と心の関係について少し研究していたんです」

「食と心の関係…」

「はい。実は、私たちの食べる物が精神状態にも大きく影響するという研究があって」

そこから二人の会話は弾んだ。高橋は食品と精神健康の関係について詳しく、金子は料理技術の面から意見を交わした。特に「添加物や過剰な調味料が味覚と心理に与える影響」という高橋の専門分野は、金子にとって新鮮な視点だった。

「本物の出汁の旨味と、化学調味料の差は、単なる味の問題ではなく、体と心の反応まで違うんですよ」

「なるほど…それは料理する側としても、考えさせられますね」

沢村はその会話を穏やかに見守っていた。

「お二人とも人生の転機を経験されている。そして、その経験を新たな知恵に変えようとしている。素晴らしいことです」

茶話会が終わり、参加者たちが帰り始めた頃、沢村は金子を呼び止めた。

「金子さん、少しお時間ありますか?」

「はい、もちろん」

二人は道場の小さな庭に出た。初夏の日差しが心地よく感じられた。

「料理と瞑想の共通点に気づき始めましたか?」

「はい、少しずつ…どちらも『今この瞬間』に集中することの大切さを感じています」

「そうです。そして、もう一つ。『すべては流れている』という認識も重要です」

「流れている…」

「材料の状態は日々変わります。その日の温度や湿度も違う。だから、同じレシピでも微調整が必要になる。それは『固定した完璧』を求めるのではなく、『流れに合わせた完璧』を目指すということです」

沢村の言葉に、金子は深い洞察を感じた。

「料理も人生も、固定的に考えるのではなく、流れの中で最適な対応を見つける…そういうことでしょうか」

「その通りです。金子さんは印刷会社という一つの道を歩んできて、今は料理という新しい道に踏み出した。それは『人生の流れ』に身を任せた結果かもしれません」

金子は静かに頷いた。確かに、会社の倒産という予期せぬ出来事がなければ、料理への情熱を再燃させることはなかったかもしれない。

「沢村さん、私…本当に料理の道でやっていけるでしょうか」

「それは金子さん自身が見つける答えです。ただ、私が見る限り、あなたの目は料理の話をする時、特別な輝きを持っています」

その言葉に、金子は心が温かくなった。

「今の課題を乗り越えることが大切です。そして、瞑想を続けることで、集中力も高まり、プレッシャーにも強くなるでしょう」

「はい、続けます」

「それと、高橋さんとのご縁も大切にされるといいですね。彼女も人生の転機を経験し、乗り越えてきた方です。共に学び合える仲間がいることは、大きな支えになります」

金子は今日の出会いに感謝の気持ちを抱いた。高橋恵という同じような境遇の人との出会いは、心強いものだった。

帰り道、金子は今日の学びを整理していた。瞑想を通じての集中力の向上。料理と瞑想の共通点。そして、高橋さんから教わった食と心の関係…。すべてが自分の新しい道に役立つ知識だった。

「流れに合わせた完璧」という言葉が心に残る。確かに自分は「固定した完璧」を求めすぎていたのかもしれない。毎回同じ味を出そうと神経をすり減らすのではなく、その日の材料や状況に合わせて最適な味を見つける…そんな柔軟性が必要なのだろう。

実家に帰ると、父が新聞を読んでいた。

「おかえり」

父からの珍しい挨拶に、金子は少し驚いた。

「ただいま」

「今日は料理の仕事じゃないのか?」

「いえ、午前中に瞑想の教室に行ってきたんです」

「瞑想?」父は眉を寄せた。「怪しげなものに手を出さないほうがいいぞ」

「いえ、違います。心と体のバランスを整えるための…」

「まあいい。それより、その居酒屋の仕事、どうなんだ?」

父が自分の仕事に関心を示すのは珍しいことだった。

「少しずつですが、慣れてきました。まだまだ課題は多いですが…」

「そうか」

簡素な会話だったが、父が自分の料理の仕事に少しでも関心を持っていることが、金子には嬉しかった。

「そのうち…父さんも『おかん』に来てみませんか?」

大胆な提案に、自分でも驚いた。父の反応が不安だったが、意外にも父は考えるような素振りを見せた。

「まあ、いつか機会があれば」

それだけの言葉だったが、全面的な拒絶ではなかった。これも小さな一歩だと金子は思った。

その晩、金子は明日の仕事の準備をしながら、沢村の言葉を思い出していた。「集中と開放」「流れに合わせた完璧」…これらの概念を料理にどう活かすか。

また、高橋恵との会話も刺激的だった。食と心の関係という視点は、自分の料理にも取り入れられるかもしれない。化学調味料に頼らない、本物の出汁の旨味を活かした料理…。

「明日からの料理に活かそう」

金子は新たな気づきと決意を胸に、ノートに明日の計画を書き始めた。料理の道はまだ始まったばかり。失敗や挫折もあるだろうが、一歩一歩進んでいくしかない。

そして何より、この道を選んだことに後悔はなかった。四十一歳からの再出発は不安も大きいが、自分の情熱に正直に生きる喜びを、今、金子は感じていた。