呼吸と味わう人生 第5章:技術と道具

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5-1:自宅研究

「今日は何を作るんですか?」

金子の後ろから、母の優しい声がした。最近は両親が外出している時だけではなく、堂々と実家の台所で料理をするようになっていた。特に休日の午前中は、実験的な料理の時間として確保していた。

「今日は、低温調理器を使って鶏むね肉の調理実験をしてみるつもりなんだ」

「低温…調理器?」

母は首を傾げた。台所のテーブルに置かれた四角い機械を不思議そうに見ている。

「これなんだ」

金子は愛着を込めて、『シェフスパン』ST-100という低温調理器に手を触れた。三万八千円もする高価な調理器具だが、先週思い切って購入した。「おかん」での仕事を始めて一ヶ月半、徐々に厨房での調理にも慣れてきたが、次のステップに進むための投資だった。

「どんな風に使うの?」

好奇心旺盛な母に、金子は丁寧に説明した。

「これはお湯の温度を0.1℃単位で正確に保つことができる機械なんだ。鶏むね肉を例にすると、普通に焼いたり茹でたりすると、どうしても火が通りすぎて、パサパサになりがちでしょ?」

「そうね、特に鶏むね肉は難しいわよね」

「でも、これを使えば、例えば63℃という低い温度で、長時間かけてゆっくり加熱できる。そうすると、中はしっとりジューシーなのに、ちゃんと火が通った状態になるんだ」

「まあ、素晴らしい!でも、それって電気代が…」

「消費電力は200W程度だから、それほどでもないんだよ。それに、研究のためだから…」

金子は少し照れくさそうに言った。「おかん」での仕事と平行して、自宅で料理の研究を続けることは、彼にとって欠かせない成長の糧となっていた。

「研究といえば…あなた、最近ずいぶんノートを書いているわね」

母が指差したのは、キッチンテーブルに広げられた黒いノートだった。そこには温度と時間の関係図、食材ごとの最適調理条件表などが細かく記されていた。

「ああ、これは調理データを記録してるんだ」

金子はノートを開き、母に見せた。そこには様々な食材の低温調理における温度と時間の関係性が、グラフや表にまとめられていた。

「鶏むね肉は63℃で1時間半、牛モモ肉は58℃で3時間、豚バラは65℃で24時間…」

「こんなに詳しく記録してるのね。まるで科学者みたい」

母は感心した様子で、ノートのページをめくった。そこには料理の写真も貼られ、食感や味の評価まで細かく記録されていた。

「料理は科学でもあるんだ。温度と時間の関係を理解すれば、再現性の高い料理ができる。『おかん』での課題の一つが、味のばらつきだったから」

金子は低温調理器に水を入れ、設定温度を63℃に合わせた。ディスプレイが青く光り、水温が徐々に上昇していく。

「さて、準備しよう」

袋から取り出した鶏むね肉を、まな板の上で丁寧に筋や余分な脂を取り除いていく。金子の包丁さばきは以前より格段に上達していた。手首の返し方、刃の角度、リズム感…すべてが洗練されてきていた。

「塩は2%、黒胡椒少々、ニンニクパウダーを微量…」

金子は正確なグラムで調味料を計量し、肉に均等に塗り込んでいく。

「あら、目分量じゃないのね」

「プロの世界では、再現性が重要なんだ。同じ料理を毎回同じ味で提供するには、精密な計量が基本だよ」

調味料を塗り込んだ鶏むね肉をジップロックの袋に入れ、できるだけ空気を抜いて密閉する。

「本当は真空パック機があれば良いんだけど、それはまだ高くて…」

「あなた、随分お金かけてるのね。この機械も高かったでしょう?」

「うん、でも必要な投資だと思ってるんだ。プロとして成長するために」

母は複雑な表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。

「あなたが生き生きしてるから、それでいいのよ」

低温調理器の温度が設定値に達したことを示すビープ音が鳴った。金子は袋に入れた鶏むね肉を水槽に沈め、タイマーを1時間30分にセットした。

「これで、後は待つだけ」

「その間、何するの?」

「次の研究だよ」

金子は冷蔵庫から別の食材を取り出した。牛もも肉だ。

「これは明日の実験用。下味を今から付けておくんだ」

金子はノートを見ながら、牛肉用の下味を調合し始めた。計量カップと電子スケールを使って、醤油、みりん、酒を正確に混ぜていく。

「料理ってこんなに科学的なものだったのね。私はいつも勘で作ってたわ」

「家庭料理なら、それで十分だと思う。でも、プロの料理人として安定した味を提供するには、こういった精密さも必要なんだ」

牛肉の下処理を終え、調合した下味に漬け込んだら密閉容器に入れ、冷蔵庫に戻した。

「他にも色々実験中なの?」

「うん、特に低温調理の可能性を探ってるんだ。これが『おかん』に導入できれば、差別化になるかもしれない」

金子は熱心に語った。「おかん」での日々の仕事と平行して、彼は家庭用調理器具の研究に没頭していた。特に低温調理器との出会いは、彼の料理人としての視野を大きく広げるものだった。

「でも、村上さんという優れた料理人がいるのに、あなたの提案が受け入れられるのかしら?」

「それが…村上さんのリハビリが長引いていて」

金子は少し複雑な表情になった。村上の不在は「おかん」にとって痛手だが、自分にとっては成長のチャンスでもあった。複雑な心境だった。

「それに、僕はただ村上さんの代わりになるつもりはないんだ。村上さんの伝統的な技術に、自分なりの新しい視点を加えられたらいいなと思ってる」

「そうね、それぞれの良さがあるものね」

時が経ち、低温調理器のタイマーが鳴った。金子は慎重に袋を取り出し、キッチンペーパーで水気を拭き取る。

「次はフライパンで表面だけさっと焼き色を付ける」

「ティファール・プロフェッショナル」のフライパンを強火にかけ、表面を数十秒ずつ焼く。肉の中まで火を通す必要はなく、表面に香ばしさを加えるだけだ。

「はい、完成」

金子は丁寧に肉を切り分け、二つの皿に盛り付けた。

「お母さんも、ぜひ食べてみて」

母は一口食べて、目を見開いた。

「これ、鶏むね肉なの?信じられないくらいジューシーよ!」

「でしょう?これが低温調理の魅力なんだ」

金子も一口食べて、食感と味を確認する。そして、すぐにノートに結果を記録した。

「63℃、1時間30分。食感は理想的。しっとりとしていて、弾力がある。塩分は2%で適切。次回は香草を加えてみよう…」

詳細なメモを取りながら、金子は次の実験計画も書き加えていった。これが彼の日課となっていた。「おかん」での実践と、自宅での研究。その両輪が、彼を成長させていた。

「お父さんが帰ってきたら、食べさせてあげましょう」

「え?父さんに?」

「ええ、あなたの料理に興味を持ち始めてるのよ。この前も『あいつ、本当に料理が上手いのか』って聞いてきたわ」

その言葉に、金子は複雑な気持ちになった。かつて「男が料理なんて」と言っていた父が、自分の料理に関心を持ち始めているというのは、小さな変化だが嬉しいことだった。

「そうだな…父さんにも食べてもらおう」

金子は静かに微笑んだ。料理を通じて、少しずつ父との距離も縮まっていくのかもしれない。そんな希望を抱きながら、彼は次の実験準備に取りかかった。

5-2:集中力の発見

「ナナさん、もう少し火を弱めて。出汁巻き玉子は強火だと固くなりすぎるから」

厨房の一角で、金子はナナに調理のコツを教えていた。ナナは真剣な表情で、出汁巻き玉子の火加減を調整している。

「こんな感じですか?」

「そうそう、その調子。卵は優しく扱うんだ」

「はい!」

山田の提案で、ナナが厨房のヘルプとして金子の補助に入るようになって二週間。彼女は熱心に料理を学び、基本的な下準備や簡単な調理を任せられるようになっていた。

「金子さん、この包丁の使い方、すごいです!どうやったらそんな風に切れるんですか?」

「包丁と手首の角度だね。こうやって…」

金子は実演しながら説明した。ナナはスマートフォンで撮影しながら熱心に学んでいた。

「あ、そうそう。今度、包丁の研ぎ方も教えてください」

「もちろん」

二人が和やかに会話する様子を、山田は少し離れた位置から見守っていた。彼の計算通り、ナナが厨房のヘルプに入ったことで、金子の負担は減り、彼は自分の得意分野に集中できるようになっていた。

「ナナちゃん、フロアの準備も頼むよ」

山田の声に、ナナは「はい!」と元気よく答え、厨房から出ていった。

「金子くん、調子はどうだ?」

「おかげさまで、だいぶ安定してきました」

金子は自信を持って答えた。この一ヶ月で、彼は大きく成長していた。特に感じていたのは、集中力の向上だった。

「この間の低温調理の鶏肉料理、評判良かったよ」

「ありがとうございます」

金子は嬉しそうに頷いた。自宅での研究成果を「おかん」のメニューに取り入れ始めたのは、二週間前からだった。山田の許可を得て、自前の低温調理器を厨房に持ち込み、いくつかの限定メニューを提供していた。

「今日も限定メニューにする?」

「はい、昨日仕込んでおいた牛モモ肉の低温調理を使った一品を」

「楽しみにしてるよ」

山田が立ち去ると、金子は再び調理に集中した。今日の仕込みは多い。開店前の限られた時間を最大限に活用するため、彼は段取りを整理していた。

「まず出汁を取り、次に野菜の下処理、それから…」

段取りを決めると、金子は深呼吸をして、沢村から学んだ呼吸法を実践した。「今、ここ」という言葉を心の中で繰り返し、全神経を目の前の作業に集中させる。

出汁を取り始めると、金子の動きが変わった。無駄のない流れるような動き、適切な力加減、正確なタイミング…。まるで別人のように集中し、的確に調理を進めていく。

「金子さんって、調理中すごく集中してますよね」

昼休憩中、ナナが感心したように言った。

「そう?特に意識してないけど…」

「うん、普段はちょっと猫背で、動きもどこか遠慮がちなのに、調理が始まると姿勢が良くなって、動きにキレが出るんです」

金子は少し驚いた。自分ではあまり自覚していなかったが、確かに調理に集中すると、全身のエネルギーが一点に集まるような感覚があった。

「それ、沢村さんが言ってた『集中と開放』かもしれないね」

「沢村さん?」

「ああ、瞑想を教わっている人なんだ。料理と瞑想は共通点があるって教えてもらったんだよ」

「へえ、どんな共通点なんですか?」

金子は熱心に説明した。瞑想で身につけた「今この瞬間」に意識を集中させる技術が、料理にも活かされていること。呼吸を整えることで、プレッシャーの中でも冷静さを保てるようになったこと。

「確かに、金子さんって最近、忙しい時間帯でも焦らなくなりましたよね」

「そうかな?」

「はい!前は注文が重なると慌ててましたけど、今はどんなに忙しくても呼吸が乱れないというか…」

ナナの言葉に、金子は少し照れくさく笑った。確かに自分でも変化を感じていた。以前なら複数の注文が重なると混乱していたが、今は一つ一つの作業に集中し、全体の流れをコントロールできるようになっていた。

「沢村さんの言う通りだな」金子は独り言のように呟いた。「料理も瞑想も、『今、ここ』に全神経を集中させること」

午後の営業が始まり、再び厨房は活気づいた。金子は落ち着いたリズムで調理を続けていた。複数のオーダーが入っても、慌てずに対応する。

「金子さん、牛モモ肉の低温調理、あと何分で出せますか?」

田中の問いに、金子は即座に答えた。

「あと3分、仕上げに入ります」

彼は低温調理済みの牛モモ肉をフライパンで表面だけサッと焼き、特製の赤ワインソースをかけ、盛り付けた。

「完成です」

「おお、見た目も美しいな」

山田が感心した様子で料理を見た。

「最近の金子くんは安定感が増したね。特に集中力がすごい」

「ありがとうございます。実は沢村さんから教わった瞑想が役立っていて…」

「沢村さんの教え?」

「はい、特に『呼吸』に意識を向けることが重要だと。呼吸を整えることで、どんな状況でも心を落ち着かせられるんです」

山田は頷いた。

「なるほど。確かに料理人にとって、集中力は命だからな」

「それに、複数の作業を同時に進める時も、一つ一つの作業に『今、ここ』という意識で向き合うと、不思議と全体がスムーズになるんです」

「興味深いな。その瞑想、私も少し興味あるよ」

「今度、沢村道場の案内をしますよ」

金子は嬉しそうに答えた。沢村から学んだことが、自分の料理人としての成長につながっていることを実感していた。

夜の営業時間、混雑のピーク時にも、金子の集中力は途切れなかった。複数のオーダーを同時に進行させながらも、一つ一つの料理に心を込める。火加減の微調整、味の確認、盛り付けの美しさ…どれも妥協しない。

「すごい…」

ナナが厨房の片隅から金子を見つめていた。

「金子さん、私もあんな風に集中できるようになりたいです」

「ナナさんなら、きっとできるよ。基本は『呼吸』なんだ。呼吸を意識して、目の前のことだけに集中する」

「はい、教えてください!」

ナナの熱心さに、金子は微笑んだ。かつて自分が沢村から学んだように、今度は自分がナナに教える立場になっていた。知識と技術の伝承…それも料理人としての大切な役割だと感じていた。

閉店後、金子は一日の疲れを感じながらも充実感に満ちていた。洗い物を済ませ、厨房を清掃し、明日の準備をする。すべての作業に丁寧に向き合う。

「お疲れ様、金子くん」

山田が労いの言葉をかけてきた。

「今日もいい仕事をしたね。特に牛モモ肉の低温調理は評判が良かったよ」

「ありがとうございます」

「それにしても、本当に変わったな。最初の頃は想像もできなかったよ。こんなに安定した仕事ぶりになるなんて」

「沢村さんの教えのおかげです。あと、自宅での研究も役立っています」

「研究?」

「はい、休日には自宅で様々な実験をしているんです。温度と時間の関係、調味料の配合比、調理器具の特性など…」

金子は熱心に説明した。山田はその話を興味深く聞いていた。

「なるほど、そういう研鑽があってこその今の成長なんだな」

「はい。料理はやればやるほど奥が深くて、まだまだ学ぶことが山積みですが…」

「その姿勢が大事なんだよ」山田は優しく微笑んだ。「村上も、年齢を重ねた今でも日々勉強を続けている。料理人に完成はないんだ」

金子は深く頷いた。

帰り道、金子は星空を見上げながら歩いた。以前より確実に成長している自分を感じていた。特に「集中力」という点で、大きな飛躍があった。それは料理技術だけでなく、人間としての在り方にも影響していた。

「今、ここ」

沢村の教えを思い出し、金子は深呼吸した。初夏の夜風が頬を撫で、彼の心を軽くしてくれた。

5-3:ナナとの教え合い

「包丁は手首ではなく、肘から動かすんですね」

日曜日の午後、営業準備の合間に、金子はナナに包丁の基本を教えていた。ナナは真剣な表情で、きゅうりを均等な厚さで切る練習をしている。

「そう、そうそう。力を入れすぎず、刃の重みを利用するんだ」

「こんな感じですか?」

「うん、その調子。リズムも大事だよ。トントントン…と一定のリズムで」

ナナは集中して包丁を動かす。最初はぎこちなかった動きが、少しずつ滑らかになっていく。

「できました!どうですか?」

金子は切り終えたきゅうりを確認し、頷いた。

「いいね、だいぶ均等になってきた。でも、まだ少しばらつきがある。毎日練習あるのみだよ」

「はい!家でも練習します!」

金子はナナの熱心さに感心していた。彼女は学生でありながら、料理への情熱を持ち、時間を見つけては技術向上に努めていた。

「ナナさんはなぜ料理に興味を持ったの?」

「実は母の影響なんです。母は長年居酒屋で働いていて、家でも素晴らしい料理を作ってくれました。でも今は腰を悪くして…」

ナナの表情に、少し陰りが差した。

「だから、いつか母のような料理人になりたいなって」

「素晴らしい目標だね」

金子は心から言った。ナナのような若い世代が、料理の道に情熱を持っていることが嬉しかった。

「でも、ファッションデザイナーになるという夢もあって…どっちを選ぶべきか悩んでるんです」

「両方の道を探ることもできるかもしれないね。例えば、食とファッションを融合させた何か…」

「そうですね!」ナナの目が輝いた。「料理と衣装って、どちらも『装い』ですもんね」

二人の会話は、料理を超えて広がっていった。金子は自分の経験から、キャリアの選択について率直にアドバイスした。一方で、ナナも自分の世代ならではの視点を金子に伝えた。

「そういえば、金子さん。『おかん』のSNS宣伝、私に任せてもらえませんか?」

「SNS?」

「はい!大学でデジタルマーケティングも学んでいるんです。インスタグラムで『おかん』のメニューや雰囲気を発信したら、若いお客さんも増えると思うんです」

金子は驚いた。確かに「おかん」は地元では評判の店だが、特別な宣伝はしていなかった。口コミが中心だった。

「それは面白いアイデアだね。山田さんに相談してみるといいよ」

「実は…もう山田さんに言ってみたんです。『金子さんの新メニューを中心に宣伝したい』って」

「僕の料理を?」

「はい!金子さんの低温調理を使った料理は見た目も美しいし、インスタ映えするんです!」

金子は照れくさそうに笑った。「インスタ映え」という言葉は聞いたことがあったが、自分の料理がそうだとは思っていなかった。

「それで、山田さんは?」

「『金子と相談してみろ』って。公式アカウントを作って、私が運用したいんです」

ナナは熱心に語った。大学の課題もかねて、飲食店のSNSマーケティング戦略を実践してみたいのだという。

「僕は全然詳しくないけど…ナナさんに任せるよ。ただ、メニューの写真を撮る時は声をかけてね。一番いい状態で撮影したいから」

「ありがとうございます!」

ナナは嬉しそうに手を叩いた。

「それじゃあ、お互いに教え合いましょう。私は料理を金子さんから学び、金子さんはSNSの使い方を私から学ぶ…どうですか?」

「いいね、それ」

金子は微笑んだ。世代を超えた学び合いは、新しい視点と可能性をもたらしてくれる。

次の日から、ナナは本格的にSNS戦略を始めた。彼女は大学の授業の合間に、細かい計画書を作成してきた。

「まず、『おかん』公式インスタグラムのアカウントを作りました!」

ナナはスマートフォンを金子に見せた。シンプルながらも魅力的なプロフィールページが表示されている。

「ここに毎日、その日のおすすめメニューや、調理風景をアップしていきます。特に金子さんの低温調理メニューは目玉にしたいんです」

「僕の料理を中心に?それは恐縮だな…」

「いえいえ、村上さんの伝統的な料理も大切にしつつ、金子さんの革新的な料理もアピールする…そういうバランスが大事だと思うんです」

ナナの言葉には説得力があった。大学での学びを実践に活かそうという意欲が伝わってきた。

「写真の撮り方にもコツがあるんですよ」

ナナは実際に料理を配置し、光の当て方や角度を細かく調整した。

「斜め上から撮ると立体感が出て、食欲をそそるんです。それから、自然光が一番きれいに撮れるので、窓際で撮影するのがコツ」

金子は感心しながら見学していた。料理を美しく見せるための工夫は、盛り付けの参考にもなる。

「それから、ハッシュタグの付け方も重要なんです」

ナナは詳しく説明した。地域名やジャンル、食材名など、適切なハッシュタグを付けることで、より多くの人の目に触れる可能性が高まるという。

「なるほど…SNSって奥が深いんだな」

「はい!でも基本は『伝えたい相手に、伝えたいことを、効果的に届ける』ということです。それは料理と同じですよね?」

金子は頷いた。確かに共通点がある。料理も一種のコミュニケーションなのだ。

「じゃあ、これから僕の新メニューができたら、ナナさんに写真を撮ってもらおうか」

「はい!楽しみにしています!」

そうして、二人の「教え合い」は本格的に始まった。昼の営業前や、夜の閉店後の時間を利用して、お互いの専門分野を教え合う。

金子はナナに、包丁の持ち方から始まり、火加減の見極め方、味の調整法、食材の選び方まで、基本的な料理技術を教えた。特に出汁の取り方は重点的に指導した。日本料理の基本である出汁を理解することが、味の土台を作るからだ。

一方、ナナは金子にSNSの効果的な使い方を教えた。スマートフォンで美しい料理写真を撮るコツ、効果的なキャプションの書き方、ハッシュタグ戦略など、デジタルマーケティングの基礎を分かりやすく説明した。

「実は私、個人のインスタグラムでフォロワーが2000人くらいいるんです」

「2000人も?すごいね!」

「ありがとうございます!大学の課題でSNSマーケティングを研究していて、自分自身で実践してみたんです」

ナナのスマートフォンには、洗練されたファッションや日常の一コマが美しく配置されていた。その構成力と審美眼に、金子は感心した。

「君は本当に才能があるね。ファッションデザイナーの夢も、きっと叶うと思うよ」

「ありがとうございます…でも、料理の道も捨てがたくて」

「両方追求することもできるさ。たとえば、料理とファッションを融合したライフスタイル提案とか」

「そうですね!今は両方学べる環境に感謝して、精一杯頑張ります!」

ナナの前向きな姿勢に、金子も勇気づけられた。四十一歳からの再出発に不安を感じることもあったが、若い世代の情熱を目の当たりにすると、自分も頑張らねばと思えた。

「おかん」のインスタグラムは、開設から一週間で300人を超えるフォロワーを獲得した。特に金子の低温調理を使った「とろける鶏むね肉の香草焼き」の写真は、多くの「いいね」を集めた。

「すごい!写真映えする料理を作れるなんて、金子さんには才能がありますね」

「いや、ナナさんの撮影技術あってこそだよ」

「お互いの良さが掛け合わされた結果ですね!」

二人の会話は弾んだ。世代を超えた「教え合い」が、予想以上の効果を生み出していた。

「最近、インスタを見て来ましたという若いお客さんが増えてきたよ」

山田が驚きながらも嬉しそうに報告した。

「ナナちゃんの戦略が当たってるんだな。特に金子くんの低温調理メニューを目当てに来る人が多いよ」

金子は照れくさそうに頭をかいた。「ナナさんのおかげです」

「いえいえ、金子さんの料理があってこそです!」

山田は二人のやり取りを微笑ましく見ていた。

「二人のコラボレーション、上手くいってるじゃないか。これからも続けてくれ」

「はい!」

二人は元気よく答えた。

この「教え合い」は、単なる技術交換を超えた意味を持ち始めていた。金子にとっては、若い世代と接することで新しい視点や発想に触れる機会となり、ナナにとっては、経験豊かな大人から人生の知恵を学ぶ場となっていた。

互いの違いを尊重し、学び合う関係性。それは、これからの「おかん」にとっても、新たな可能性を開くきっかけになっていた。

5-4:効率化の模索

「このままでは回らない…」

金子は厨房の片隅で、小さく呟いた。最近、「おかん」の客足が増え、特に金曜日と土曜日の夜は常に満席の状態が続いていた。SNS効果もあり、新規客も増加傾向にある。うれしい悲鳴ではあるが、厨房の処理能力は限界に近づいていた。

「何か対策を考えないと…」

金子はノートを広げ、効率化のためのアイデアを書き始めた。彼は普段から効率的な作業動線や調理プロセスを常に考えていたが、今回はより抜本的な改革が必要だと感じていた。

「まず、調理器具の配置を見直そう」

彼は厨房の見取り図を描き、現在の動線を分析した。調理中、無駄な移動が多い箇所を特定し、改善案を考える。よく使う調味料や器具を手の届く範囲に再配置し、作業スペースを確保する計画だ。

「次に、調理の効率化…」

金子は自宅での研究成果を活かしたいと考えていた。特に低温調理器と圧力鍋の導入は、調理時間の短縮と品質向上の両立に効果的なはずだ。

「『シェフスパン』低温調理器は既に使っているが、業務用の『プレッシャーロック』圧力鍋も導入したい…」

彼は具体的な数字も書き込んだ。「プレッシャーロック」PR-2000は一万六千円。牛すじの調理時間が従来の3時間から40分に短縮できる計算だ。また、真空パック機「バキュームプロ」VP-300の導入も視野に入れていた。これは五万二千円と高価だが、低温調理の効率と品質が飛躍的に向上する。

「総投資額は約12万円…3ヶ月で回収できるか?」

金子は収支計画も詳細に計算した。新たな設備投資による原価率の改善、客単価の向上、回転率の増加などを総合的に考慮すると、3ヶ月での回収は十分可能だと判断した。

「よし、山田さんに提案してみよう」

金子は翌日、開店前の静かな時間を利用して、山田に効率化案のプレゼンテーションを行った。

「これが私の考える厨房効率化プランです」

手書きではあるが、詳細なデータと図解で構成された企画書を、金子は緊張しながら山田に手渡した。

「ほう、随分と本格的な提案だね」

山田は感心した様子で、企画書に目を通し始めた。

「まず、調理器具の配置改善案ですが、これは投資なしで実行可能です。作業動線を最適化し、前処理→調理→盛り付けの一方通行化を図ります」

山田は頷きながら聞いていた。

「次に、調味料配置の再編です。使用頻度に基づいて、よく使うものを手の届く範囲に配置します」

「なるほど、これはすぐにでも実行できそうだな」

「そして、本題の設備投資案です」

金子は少し緊張しながらも、続けた。

「『プレッシャーロック』圧力鍋の導入により、煮込み料理の調理時間を大幅に短縮できます。牛すじは3時間から40分に、角煮は4時間から1時間に短縮可能です」

「それは魅力的だね」

「また、『バキュームプロ』真空パック機を導入することで、低温調理の品質と効率が向上します。前日の仕込みが可能になり、開店後の調理時間を短縮できます」

山田は真剣な表情で、投資金額と回収計画を確認した。

「12万円の投資か…原価率2%改善と客単価200円アップで3ヶ月回収という計算だが、根拠は?」

金子は準備していた詳細なデータを示した。低温調理と圧力調理による材料ロスの削減、高付加価値メニューの導入による客単価向上、調理時間短縮による回転率改善…すべて具体的な数字に基づいていた。

「想像以上に詳しく計算してあるね…」

山田は感心した様子だった。

「実は、大学時代に経済学部だったので、こういう収支計画は得意なんです」

「そうだったのか」山田は微笑んだ。「料理と経営、両方の視点を持っているなんて心強いよ」

金子は恐る恐る尋ねた。

「では、この提案は…?」

「基本的に賛成だ」山田はきっぱりと言った。「ただ、一度に全部は難しいかな。段階的に導入していこう」

「ありがとうございます!」

金子は安堵と喜びで胸がいっぱいになった。彼の提案が認められたのだ。

「まず、調理器具の配置と調味料の再編はすぐに実行しよう。設備投資は、まず『プレッシャーロック』圧力鍋から始めて、効果を見てから『バキュームプロ』を検討するというのはどうだろう?」

「はい、その方が安全ですね」

「それから、もう一つ大事なことがある」

山田は少し言いにくそうに続けた。

「村上が復帰したら、この新しい機器をどう思うかという問題だ。彼は伝統的な調理法に拘りがあるからね」

金子は顔を曇らせた。確かにそれは懸念事項だった。村上は旧来の調理法を重視し、新しい技術や機器には懐疑的かもしれない。

「村上さんのリハビリの経過はどうですか?」

「良くなってきているよ。医師の話では、あと一ヶ月ほどで復帰できるかもしれないとのことだ」

「わかりました。村上さんが戻られる前に、新しい調理法の有効性を実証しておきたいと思います」

「いいアプローチだね。実績があれば、村上も理解してくれるだろう」

その日から、金子の効率化プランは段階的に実施されていった。まず、調理器具の配置変更と調味料の再編から始めた。これだけでも、調理の流れはずいぶんスムーズになった。

次に、「プレッシャーロック」圧力鍋が導入された。金子は自宅で既に研究済みだったこの調理器具を、すぐに厨房で活用し始めた。特に人気メニューの「牛すじの煮込み」は、調理時間の大幅短縮に成功。これにより、注文を受けてから提供までの時間が短縮され、客の満足度も向上した。

「金子さん、この牛すじ、いつもより柔らかくておいしいです!」

ナナが感動した様子で伝えた。

「ありがとう。圧力鍋のおかげさ。高圧で調理することで、短時間でも味が染み込むんだ」

「すごい!調理器具って大事なんですね」

「そうだね。ただし、どんな道具も使いこなせなければ意味がない。道具を使いこなす技術が大事なんだ」

金子は実感を込めて語った。これはかつて沢村から学んだ教えでもあった。「道具に頼る料理人ではなく、道具を使いこなす料理人になれ」と。

さらに、金子は「一品完結型の調理フロー」も導入した。これは一つの料理を最初から最後まで一人で担当するのではなく、工程ごとに役割分担する方式だ。ナナは前処理と盛り付けを担当し、金子は火を使う本調理に集中する。この分担により、さらに効率が上がった。

「これなら、もっと多くのオーダーにも対応できそうだね」

山田は満足そうに効率化の成果を見ていた。

その夜の営業は過去最高の客数だったが、新しいシステムのおかげで厨房は混乱なく回った。料理の提供時間も短縮され、客の回転率も向上した。

「金子くん、効率化プランは大成功だ」

閉店後、山田は喜びを隠さなかった。

「ありがとうございます。まだ改善の余地はありますが…」

「謙虚だね」山田は笑った。「次は『バキュームプロ』の導入も前向きに検討しよう。今日の結果を見れば、投資の価値は十分あると思う」

金子は嬉しさで胸がいっぱいになった。自分の提案が認められ、実行され、成果を上げたのだ。

「山田さん、もう一つ提案があります」

「なんだい?」

「『おかん』の看板メニューを再構築してはどうでしょうか。村上さんの伝統的な料理を大切にしつつ、新しい技術を取り入れた料理も加える…」

「面白いね。具体的には?」

「例えば、『伝統と革新の融合メニュー』として、村上さんの出汁の技術と、低温調理や圧力調理を組み合わせた新メニューを開発するんです」

山田は考え込むような表情になった。

「村上が戻ってきたら、彼と一緒に開発できるといいな」

「はい、ぜひ村上さんとコラボレーションしたいです」

「期待しているよ、金子くん」

山田は金子の肩を軽く叩いた。

家に帰る途中、金子は充実感に満ちていた。料理人としての技術だけでなく、効率化や経営的視点も持ち始めていることを自覚していた。今日の成功は、自信につながった。

「四十一歳からでも、新しいことに挑戦する価値はある」

金子は星空を見上げながら、そう思った。これからも技術と道具を磨き、自分らしい料理の道を切り拓いていきたい。そんな決意を胸に、金子は歩み続けた。