
6-1:村上の復帰
「村上さんが今日から戻ってくるよ」
山田の一言に、「おかん」の厨房は緊張感に包まれた。脳梗塞で倒れてから約二ヶ月。村上の不在の間、金子は厨房を任されて成長してきた。低温調理器や圧力鍋など新しい調理法を導入し、「おかん」のメニューも少しずつ進化させてきた。しかし、本来の料理長が戻ってくるとなれば、これまでの変化がどう受け止められるか不安もあった。
「何時頃いらっしゃるんですか?」
金子は静かに尋ねた。
「お昼過ぎかな。まだリハビリ中だから、最初は見学と軽い仕事だけのつもりらしい」
時計は午前十時を指していた。開店準備の時間だ。金子は普段通り、仕込みに取りかかった。出汁を引き、野菜を切り、肉の下処理をする。しかし、いつもの集中力が少し欠けているのは否めなかった。
「緊張してるの?」
ナナが金子の様子に気づいて尋ねた。
「うん、少しね」
「大丈夫ですよ。金子さんの料理、すごく評判いいですから!村上さんも認めてくれるはずです」
ナナの励ましに、金子は微笑んだ。
「ありがとう。でも、プロの世界は厳しいからね」
正午を過ぎたころ、厨房の入り口に人影が現れた。村上だった。
金子が最後に見た時よりも、かなり痩せて弱々しく見えた。右手に軽い杖をつき、少しぎこちない歩き方だった。しかし、その目の鋭さは健在だった。
「お久しぶりです、村上さん」
金子は緊張しながらも、丁寧に挨拶した。
村上はただ頷くだけで、厨房の中を見回した。二ヶ月の間に、配置が変わっていることにすぐ気づいたようだ。
「変えたのか」
短い言葉だが、非難の調子はなかった。
「はい、効率化のために少し…」
「悪くない」
意外な評価に、金子は驚いた。村上はさらに厨房を観察し、新しく導入されている調理器具に目をとめた。
「低温調理器か」
「はい。『シェフスパン』ST-100という機種です。温度を0.1℃単位で管理できるんです」
村上は無言でそれを見つめた後、別の場所に視線を向けた。
「圧力鍋も新しいな」
「『プレッシャーロック』PR-2000です。牛すじなどの煮込み時間を大幅に短縮できます」
村上はゆっくりと頷いた。彼の表情からは、好悪の判断が読み取れない。
その時、山田が笑顔で厨房に入ってきた。
「村上、来てたのか!体調はどうだ?」
「まあな。右手がまだ少し…」
村上は右手を軽く上げて見せた。以前のような機敏さはないが、料理はできる程度には回復しているようだった。
「今日から少しずつ復帰すると。まずは見学から」
「そうか、無理はするなよ」
「ああ」
村上は再び金子に目を向けた。
「お前が金子か」
「はい」
「料理を見せてもらおう」
金子は一瞬息を飲んだ。村上から直接、料理を評価されるのだ。
「何を作ればよろしいでしょうか」
「親子丼だ」
シンプルだが、基本が問われる料理。金子は覚悟を決めて頷いた。
「かしこまりました」
金子は深呼吸し、集中力を高めた。「今、ここ」という沢村の教えを思い出し、目の前の調理だけに意識を向ける。まずは丁寧に材料を用意し、鍋に出汁と調味料を合わせる。火にかけ、沸騰したところに下処理した鶏肉を投入。アクを丁寧に取り除き、肉に火が通ったところで玉ねぎを加える。
村上は黙って、金子の一挙手一投足を観察していた。批判も褒めもせず、ただ見つめるその視線に、金子は緊張しつつも、普段通りの調理を心がけた。
玉ねぎが透き通ったところで、溶き卵を流し入れる。火加減を弱め、半熟状態で丼に盛り付ける。最後に三つ葉を散らし、完成。
「できました」
金子は恐る恐る、村上に親子丼を差し出した。
村上は黙って箸を取り、一口すくって口に運んだ。その表情は変わらない。二口、三口と続け、金子は固唾を呑んで見守った。
「うまい」
短い評価だったが、金子の顔に安堵の色が広がった。
「ありがとうございます」
「俺とは違うが、これはこれでうまい」
その言葉に、金子は少し驚いた。自分の料理が村上のそれとは違うと認めつつも、独自の価値を認めてくれたのだ。
「材料は?」
「鶏肉は皮付きもも肉、玉ねぎ、卵、三つ葉です。出汁は昆布と鰹節で、砂糖、醤油、みりんで味付けしています」
「工夫は?」
「卵を流し入れる前に火を弱め、余熱だけで半熟に仕上げています。また、出汁の比率は昆布と鰹節を8:2にして…」
村上は静かに頷いた。
「理にかなっている」
その短い言葉が、金子にとっては最高の褒め言葉に思えた。村上は残りの親子丼を完食し、丼を置いた。
「これからどうするつもりだ?」
村上の突然の質問に、金子は戸惑った。
「どうするとは…」
「料理人として」
この問いには重みがあった。金子は真剣に考え、率直に答えた。
「正直なところ、まだ自信はありません。でも、料理の道を進みたいと思っています。特に和食の奥深さに魅了されていて…」
村上はじっと金子を見つめた。その目に、何か決断のようなものが浮かんだ。
「そうか」
それだけ言って、村上は厨房から出ていった。
金子は困惑した表情で見送った。その評価は良かったのか悪かったのか、判断できなかった。
「どうだった?」
山田が金子に尋ねた。
「わかりません…親子丼は『うまい』と言ってくれましたが…」
「それは良かった。村上が褒めるのは珍しいからね」
その言葉に、金子は少し安心した。
その日の営業中、村上は客席に座って「おかん」の様子を見ていた。金子と佐藤で回している厨房の動きや、提供される料理を静かに観察していた。
閉店後、村上は山田と何やら話し込んでいた。金子は掃除を終え、帰ろうとしたところで呼び止められた。
「金子」
村上の声だった。
「はい」
「明日から、俺が教える」
「え?」
「お前、このまま厨房にいろ。俺が教える」
金子は驚きのあまり言葉が出なかった。
「村上さん、それは…」
「料理人の素質がある。無駄にするな」
それだけ言うと、村上は帰り支度を始めた。金子は呆然と立ち尽くした。
「おめでとう、金子くん」山田が近づいてきて言った。「村上が弟子にすると言ったんだ」
「弟子…ですか?」
「そう。彼が誰かを直接教えると言ったのは、初めてのことだよ」
金子は感激のあまり、言葉を失った。そして、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。精一杯頑張ります」
村上はただ頷くだけだったが、その瞳には確かな期待の色があった。
その晩、金子は興奮して眠れなかった。長年の料理人である村上が、自分を弟子にすると言ったのだ。四十一歳からの再出発。その道のりには様々な困難があるだろうが、プロの料理人への第一歩を踏み出したのは間違いなかった。
「明日からどんな修行が待っているのだろう…」
そんな期待と不安が入り混じる思いで、金子は星空を見上げながら帰路についた。新しい道が、今、始まろうとしていた。
6-2:伝統と革新の対立
「違う!出汁はもっとゆっくり引くものだ。時間を惜しむな」
厨房に村上の厳しい声が響いた。村上が復帰して一週間。金子は正式に彼の指導を受けることになった。しかし、その日々は想像以上に厳しかった。
「すみません」
金子は素直に謝り、やり直した。出汁を引く温度と時間。村上の教えは従来のやり方より手間と時間がかかる。しかし、その結果得られる出汁の深みと透明度は格別だった。
「昆布はまず冷水から。沸騰直前で取り出し、そこに鰹節を入れる。ただそれだけのことだ」
「はい」
金子は集中して村上の動きを観察した。無駄のない所作、的確な火加減の調整、そして何より、食材への尊敬の念が感じられる姿勢。それらすべてが学ぶべきものだった。
しかし、意見が食い違う場面も少なくなかった。特に、金子が導入した新しい調理法について、村上は懐疑的だった。
「低温調理に頼りすぎるな。機械に任せていては、本当の料理はできん」
「でも、低温調理なら肉の旨味を最大限に引き出せます。特に鶏むね肉のような難しい部位でも…」
「本来、料理とは火との対話だ。機械に温度を管理させては、その対話が失われる」
村上の言葉には一理あった。しかし、金子も自分の考えを持っていた。
「確かに伝統的な技術は大切です。でしょうが、新しい技術も、より良い料理のための選択肢の一つだと思うんです」
村上は黙ってしまった。意見の相違はあれど、金子が真摯に料理と向き合う姿勢は認めているようだった。
ある日の午後、客足が途絶えた時間帯に、二人は再び低温調理について議論していた。
「伝統的な技術を守ることと、新しい技術を取り入れることは、矛盾しないと思うんです。どちらも料理をより良くするための手段であって…」
「手間を省くことは、料理の魂を失うことだ」
村上の言葉は鋭かった。
「省力化が目的ならそうかもしれません。でも、私が低温調理に惹かれたのは、素材の味をより引き出せるからなんです」
村上は黙って聞いていた。
「例えば、この鶏むね肉」
金子は低温調理した鶏むね肉を村上に差し出した。
「従来の調理法では、どうしても火が通りすぎてパサつきがちな部位ですが、63℃で90分の低温調理なら、このようにジューシーに仕上がります」
村上は渋々一口食べてみた。その表情にわずかな驚きが浮かんだ。
「悪くはない」
その言葉は、村上にしては大きな譲歩だった。
「もちろん、すべての料理に低温調理が適しているわけではありません。伝統的な技術が最適な料理もたくさんあります。大切なのは、料理ごとに最適な方法を選ぶことではないでしょうか」
村上は深く考え込むような表情になった。
そんな二人の様子を、沢村が店の隅から見ていた。彼はその日、久しぶりに「おかん」を訪れていた。
「面白い議論をしているね」
沢村が二人に近づいてきた。
「沢村さん!」
金子は嬉しそうに声をあげた。村上も沢村のことは知っていたようで、敬意を持って頷いた。
「沢村。随分久しぶりだな」
「ああ、村上さん。体調はいかがですか?」
「まあな。少しずつだが」
二人の会話から、以前からの知り合いであることが窺えた。
「二人の議論を聞いていたんだ」沢村は静かに言った。「伝統と革新、どちらも大切なものだと思う」
「沢村さんは、新しい調理法についてどう思われますか?」
金子が尋ねると、沢村は穏やかに微笑んだ。
「私の考えでは、技術はあくまで『手段』であって、『目的』ではない。大切なのは、その料理を通じて何を伝えたいかということだ」
村上も沢村も真剣に聞いていた。
「伝統的な技術には、長い歴史の中で磨かれた知恵があり、新しい技術には、これまでにない可能性がある。どちらも尊重すべきものだと思う」
沢村の言葉には、深い洞察と経験が感じられた。
「村上さんが大切にする『手間』や『時間』は、料理に魂を吹き込む重要な要素だ。一方で、金子さんが探求する新しい技術も、素材の可能性を広げる価値がある」
村上と金子は、それぞれ考え込むように黙っていた。
「私が料理人だった頃、同僚に言われたことがある。『伝統を守るとは、灰を守ることではなく、火を守ること』だと」
沢村の言葉に、村上の表情が変わった。
「料理の本質は、素材を活かし、食べる人に喜びを与えること。その目的に向かって、伝統も革新も、どちらも大切な道具なんだよ」
沢村が去った後、厨房には静かな空気が流れていた。村上は何か考え込んでいるようだった。
「村上さん?」
金子が恐る恐る声をかけると、村上はハッとしたように顔を上げた。
「試してみるか」
「え?」
「お前の低温調理と、俺の出汁。組み合わせてみろ」
金子は驚きながらも、嬉しさを隠せなかった。
「はい!すぐに」
金子は早速、村上の引いた出汁を使った低温調理のメニューを考え始めた。村上の出汁の深みと、低温調理の精密さが融合すれば、素晴らしい料理が生まれるはずだ。
「出汁で鶏むね肉を低温調理し、仕上げに炙るというのはどうでしょう」
「試せ」
その日、二人は初めて協力して新メニューの開発に取り組んだ。村上は依然として新しい技術に懐疑的な面はあったが、完全に拒絶するわけではなくなっていた。
「村上さんの出汁と低温調理が組み合わさると、こんなに深い味わいになるんですね」
できあがった料理を試食した金子の素直な感動に、村上も少し柔らかい表情を見せた。
「伝統と革新の融合…悪くないな」
その言葉に、金子は大きな希望を感じた。二人の関係は、単なる師弟を超えて、互いに学び合うパートナーシップへと変わり始めていた。
「明日は、出汁巻き玉子を教える」
村上の言葉に、金子は喜びと緊張が入り混じった気持ちで頷いた。
「ありがとうございます。精一杯学びます」
厨房を片付けながら、金子は沢村の言葉を思い出していた。伝統を守るとは灰ではなく火を守ること。その言葉の意味が、少しずつ理解できるような気がした。
6-3:料理長補佐への抜擢
「金子さん、電話です。村上さんからです」
ナナが厨房に入ってきて告げた。金子は手を拭い、電話を受け取った。
「はい、金子です」
「金子か」村上の声が聞こえた。「今日はどうした?」
「すみません、体調を崩してしまって…」
金子は申し訳なさそうに答えた。昨夜から続く高熱で、今日は休みの連絡を入れていた。
「そうか…」
村上は一瞬沈黙し、「早く治せ」と短く言って電話を切った。
金子はベッドに横たわりながら、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。村上が復帰して一ヶ月。二人の関係は少しずつ改善し、互いの良さを認め合う関係へと発展していた。村上の伝統的な技術と、金子の革新的なアプローチ。最初は対立していたその二つの要素が、徐々に融合し始めていた。
「早く戻りたい…」
金子は熱にうなされながらも、厨房での仕事のことを考えていた。
翌日、熱も下がり、金子は「おかん」に出勤した。店に着くと、山田が心配そうに迎えてくれた。
「大丈夫か?無理はするなよ」
「はい、もう熱は下がりました。ご心配おかけして申し訳ありません」
厨房に入ると、村上が黙々と仕込みをしていた。
「おはようございます。ご迷惑をおかけしました」
村上はちらりと金子を見て、頷くだけだった。しかし、その目に少しの安堵があったように見えた。
「手伝います」
金子は手を洗い、エプロンを着けて村上の横に立った。二人は無言で調理を続けた。言葉はなくとも、息の合った動きで厨房が回っていく。
開店から数時間が経ち、昼の混雑が落ち着いたころ、村上が突然話しかけてきた。
「金子」
「はい?」
「お前、このまま厨房にいるつもりか?」
突然の質問に、金子は戸惑った。
「はい…もし、よろしければ」
「正式に雇ってもらえ」
「え?」
「料理長補佐として」
金子は驚きのあまり、言葉が出なかった。料理長補佐。それは単なるアルバイトではなく、プロの料理人としての正式な地位だ。
「村上さん、それは…」
「俺が教える。お前が学ぶ。それだけだ」
その短い言葉の中に、深い意味があることを金子は感じ取った。村上は金子を認め、正式な後継者として育てる意思を示したのだ。
「山田にも話は通した。後は、お前の意志だ」
金子は感激のあまり、目頭が熱くなった。
「ありがとうございます。ぜひお願いします」
村上はただ頷くだけだったが、その表情には満足の色が浮かんでいた。
昼の営業が終わり、山田が金子を事務所に呼んだ。
「村上から聞いたよ。料理長補佐として正式に雇いたいんだが、どうだろう」
「はい、喜んでお受けします」
「給与や待遇は…」
山田は具体的な条件を説明した。アルバイトよりも良い条件だったが、一般企業の正社員に比べれば決して高くはない。しかし、金子にとってそれは問題ではなかった。彼が求めていたのは、料理人としての正式な地位だったから。
「ありがとうございます。これからもっと『おかん』に貢献できるよう頑張ります」
「村上も言っていたよ。お前には才能があると」
その言葉に、金子は感激した。村上のような職人から認められるのは、この上ない喜びだった。
「まだまだ未熟ですが、精一杯学びます」
「村上は厳しいぞ。今までの比ではないかもしれないが、それだけ期待しているということだ」
「はい、覚悟しています」
夕方、スタッフが集まった時、山田が発表した。
「皆さん、お知らせがあります。今日から金子くんが正式に料理長補佐として加わることになりました」
ナナと田中は驚きながらも、すぐに拍手で祝福してくれた。
「おめでとうございます、金子さん!」
ナナは嬉しそうに言った。田中も珍しく笑顔を見せて、「頑張れよ」と声をかけてくれた。
「ありがとう。これからもよろしくお願いします」
金子は深々と頭を下げた。そして、村上の方を見ると、彼も小さく頷いてくれた。
その日の営業は、金子にとって特別な一日となった。料理長補佐としての初日。村上の指導は厳しかったが、その一つ一つに深い意味があることを、金子は理解していた。
「出汁巻き玉子を作れ」
村上の指示に、金子は集中して取りかかった。出汁と卵の絶妙なバランス、火加減の微調整、巻き簾の使い方…すべてを意識しながら、丁寧に調理を進める。
「できました」
出来上がった出汁巻き玉子を差し出すと、村上は一切れ取って口にした。そして、珍しく明確な評価を述べた。
「及第点だ」
その言葉は、村上にしては高い評価だった。
「ありがとうございます」
「だが、まだ足りない。毎朝、開店前に練習しろ」
「はい!」
金子は喜んで答えた。これからの日々は、さらに厳しい修行になるだろう。しかし、それは料理人として成長するための貴重な機会だった。
閉店後、金子は一人で厨房に残り、翌日の準備をしていた。そこに村上が戻ってきた。
「まだいたのか」
「はい、明日の仕込みを少し…」
村上は特に何も言わず、並んで作業を始めた。二人は黙々と仕事を続けた。
しばらくして、村上が静かに言った。
「お前の親子丼」
「はい?」
「あれは、お前だけの味だ。大事にしろ」
金子は驚いた。村上が彼の料理を認め、その個性を尊重したのだ。
「ありがとうございます。村上さんの教えと、自分の感性を大切にします」
村上はただ頷いただけだったが、金子にはその重みが十分に伝わってきた。
その晩、帰り道で金子はふと空を見上げた。満天の星空が広がっていた。四十一歳からの再出発。それが今、実を結び始めていた。料理長補佐という正式な地位を得て、プロの料理人への道を本格的に歩み始めたのだ。
「ありがとう、村上さん…」
金子は心の中でそう呟きながら、明日への期待で胸を膨らませた。
6-4:父との関係修復
「実家を出て、一人暮らしを始めようと思うんだ」
金子は両親の前で切り出した。料理長補佐になって二週間。彼の生活は大きく変わった。朝は早く、夜は遅い。料理の研究に没頭する日々。そんな中で、実家暮らしの制約を感じるようになっていた。
「そうなの?」
母は少し寂しそうに尋ねた。
「うん。『おかん』に近い場所で、料理の研究もしやすいから…」
父は黙って新聞を読んでいたが、その手が少し止まったように見えた。
「お父さん、どう思いますか?」
勇気を出して、金子は父に尋ねた。
「お前の勝手だろう」
素っ気ない返事だったが、以前のように強く反対する様子はなかった。
「あの…実は、『おかん』で正式に料理長補佐として雇ってもらえることになったんです」
その言葉に、父は新聞から顔を上げた。
「正社員になったのか?」
「はい。村上さんという料理長の下で、修行させてもらいながら働きます」
父の表情に、わずかな変化があった。認めたわけではなさそうだが、少なくとも「安定した職」という点では、一歩前進したと感じているようだった。
「給料は?」
「まだそれほど高くはありませんが、一人暮らしはできます。それに、キャリアを積めば…」
父は黙って頷いただけだった。
「良かったじゃない」母が嬉しそうに言った。「誠の夢が叶ったのね」
「ありがとう、母さん」
金子は笑顔で答えた。父との関係はまだぎこちないままだったが、完全な拒絶ではなくなっていることに、少しの希望を感じていた。
数日後、金子は近所のアパートを契約した。「おかん」から徒歩15分の場所にある、一DKの小さな部屋。家賃は抑えめだが、キッチンは使いやすく、料理の研究には十分だった。
引っ越しの日、母が手伝いに来てくれた。
「それにしても、調理器具が多いのね」
母は驚いた様子で、次々と運び込まれる調理器具を見ていた。
「うん、少しずつ集めてきたんだ」
低温調理器、圧力鍋、高級包丁セット、銅製の鍋…。金子の調理器具は、一般的な料理好きの域を超えていた。
「これだけあれば、素晴らしい料理が作れそうね」
「まだまだ道具よりも腕だよ。村上さんは『道具に頼る料理人ではなく、道具を使いこなす料理人になれ』って言うんだ」
「素敵な言葉ね」
「うん、毎日が学びの連続だよ」
引っ越しの一通りの作業が終わり、母は帰ろうとした。
「お父さんに、よろしく伝えておいて」
「ええ、もちろん」
母が去った後、金子は新しい住まいを見回した。狭いながらも、自分だけの空間。料理の研究に集中できる環境が手に入ったことに、満足感を覚えた。
その夜、金子は初めて新居で料理を作った。シンプルな親子丼だが、「おかん」で村上から学んだ技術を活かした一品。卵の滑らかさ、鶏肉の柔らかさ、出汁の深み…すべてが調和した美しい親子丼だった。
「いただきます」
一人で食べる夕食。しかし、そこには確かな充実感があった。料理人としての第一歩を踏み出した実感が、この親子丼の味わいにも表れていた。
数日後、「おかん」での勤務中に、山田が声をかけてきた。
「金子くん、引っ越しは済んだか?」
「はい、すっかり落ち着きました」
「それなら、そろそろ村上を含めて、料理の方向性について話し合いたいんだ」
「方向性ですか?」
「ああ。これからの『おかん』をどうしていくか。特に、村上の伝統と、君の新しいアプローチをどう融合させていくか」
「わかりました」
その話し合いは、閉店後に行われた。村上、山田、そして金子の三人だけの、重要なミーティングだった。
「『おかん』の将来について話そう」
山田が切り出した。
「村上は伝統的な和食の技術を持ち、金子くんは新しい調理法に精通している。この二つの強みを、どう活かすべきか」
村上が静かに言った。
「伝統は守るべきだ。しかし…」彼は少し言葉を選んで続けた。「新しい視点も、時には必要だと思うようになった」
その言葉に、金子は驚いた。村上の中で、何か大きな変化が起きていることを感じた。
「私も、伝統の大切さを日々学んでいます」金子は真摯に応えた。「村上さんの技術は、何年、何十年と積み重ねられてきたもの。それを尊重しつつ、新しい可能性も探りたいと思っています」
山田は満足そうに頷いた。
「では、具体的にメニュー構成を考えていこう。村上の看板料理はそのままに、金子くんの新メニューも少しずつ増やしていく」
三人は熱心に話し合い、新しい「おかん」の方向性を固めていった。伝統と革新の融合。それは単なるスローガンではなく、具体的なメニューや調理法として形になっていくものだった。
「金子」
ミーティングが終わる頃、村上が静かに言った。
「はい」
「お前の親は、料理人になることを認めているのか?」
突然の質問に、金子は少し戸惑った。
「母は応援してくれていますが、父は…まだ完全には」
村上は黙って考え込むように見えた。
「親を安心させることも、料理人の務めだ」
その言葉に、金子は深く頷いた。
「はい、いつか父にも認めてもらえるよう、頑張ります」
家に帰る途中、金子は村上の言葉を思い出していた。親を安心させること。それは料理の腕を上げるのと同じくらい大切なことなのかもしれない。
「そうだ…」
突然、金子はあることを思いついた。父を「おかん」に招待しよう。自分の料理を食べてもらい、仕事ぶりを見てもらおう。それが、言葉よりも雄弁に、自分の決意を伝える方法だと思った。
翌日、金子は母に電話をした。
「母さん、お願いがあるんだけど…父さんを『おかん』に連れてきてくれないかな」
「お父さんを?」
「うん、私の仕事場を見てもらいたいんだ。それと、料理も食べてもらいたくて」
「わかったわ。説得してみるわね」
一週間後の土曜日、母から連絡があった。
「お父さん、行くって言ったわよ」
「本当に?」
「ええ、意外と素直に。来週の土曜日、夜七時でいいかって」
金子は喜びと緊張が入り混じる気持ちだった。
「ありがとう、母さん」
その日から、金子は父のための特別メニューを考え始めた。単に技術を見せるだけでなく、心のこもった料理を作りたかった。村上にも相談し、アドバイスをもらった。
「親のためなら、最高の一品を」
村上のその言葉に、金子は深く頷いた。
ついに当日がやってきた。金子は朝から緊張していた。
「大丈夫、金子くん」山田が励ましてくれた。「君の料理なら、きっと父親も感動するよ」
「ありがとうございます」
七時、両親が「おかん」にやってきた。母は微笑んでいたが、父は少し緊張した様子だった。
「いらっしゃいませ」
金子は笑顔で迎えた。厨房から出て、両親を個室に案内する。
「ここでゆっくりしていてください。特別コースをご用意しました」
父は黙って頷くだけだったが、目を合わせてくれたことに、金子は小さな希望を感じた。
厨房に戻り、金子は集中して料理を始めた。村上も黙って見守っていた。
「まず、出汁巻き玉子から」
村上の看板メニューでもある出汁巻き玉子。金子は丁寧に仕上げた。
次に、低温調理した鶏むね肉の香草焼き。金子が得意とする一品だ。
そして、牛すじの煮込み。圧力鍋で短時間で仕上げながらも、長時間煮込んだような深い味わいを実現した料理。
最後に、親子丼。金子のオリジナルレシピだ。
「できました」
料理を両親の前に運ぶ。母は嬉しそうに見ていたが、父はやや緊張した表情のままだった。
「どうぞ、召し上がってください」
両親は料理を口にした。母は即座に「おいしい!」と声を上げたが、父はじっと黙って食べ続けた。金子は緊張しながらも、厨房に戻った。
最後の親子丼を出し終え、金子は改めて両親のテーブルに向かった。
「いかがでしたか?」
勇気を出して尋ねると、父はようやく口を開いた。
「俺は…間違っていた」
意外な言葉に、金子は驚いた。
「男が料理をするのはみっともないと思っていたが、人を喜ばせる姿に誇りを感じた」
父の眼には、珍しく潤いが浮かんでいた。
「お前の料理は…本物だ」
その言葉に、金子の目にも涙が浮かんだ。長年の溝が、一度の食事で埋まったわけではないだろうが、確かに架け橋が作られた瞬間だった。
「ありがとう、お父さん」
「いや、私がお礼を言うべきだ」父は真摯な表情で続けた。「お前の才能を認めなかった私を、こんな形で見返すとは…誇らしいぞ、誠」
隣で母はハンカチで目元を押さえていた。「二人とも、本当に良かった…」
「これからも食べに来てください」金子は笑顔で言った。「もっともっと腕を上げますから」
「ああ、楽しみにしているよ」父も微笑んだ。初めて見る、父親の優しい笑顔だった。
その夜、両親を見送った後、金子は村上に深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
村上はただ頷くだけだったが、その目には確かな温かさがあった。
「お前は、料理人として、一歩前進したな」
シンプルだが、心に染み入るような言葉だった。金子は感謝の気持ちでいっぱいになった。
家に帰る途中、金子は星空を見上げた。父との関係修復、料理長補佐への抜擢、村上との師弟関係の深まり…すべてが新しい段階に入ったように感じられた。
「料理人としての道…まだ始まったばかりだ」
金子は決意を新たにしながら、明日への期待で胸を膨らませた。この道を選んだことに、少しの迷いもなかった。