呼吸と味わう人生 第2章:日々の重み

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2-1:居酒屋初日

金子誠は「おかん」の前で深呼吸をした。四月の優しい風が頬を撫で、桜の花びらが舞い落ちる。初出勤の日。四十一歳にして初めての飲食店勤務。緊張で胃がキリキリと痛んだ。

「大丈夫、簡単な仕事から始めるから」

山田の言葉を思い出し、金子は勇気を出して暖簾をくぐった。午後四時。まだ開店前だ。

「おう、来たか!」

山田が明るく出迎えてくれた。奥からは何か食材を切る音と、良い香りが漂ってきている。

「これが制服だ。着替えてきてくれ」

渡された黒いエプロンと白いシャツを手に、金子は裏手の更衣室へと向かった。エプロンを身に着けた自分の姿を鏡で確認する。まるで別人のようだった。

「似合ってるじゃないか」

更衣室から出てくると、山田がにっこりと笑った。

「まずは店内を案内するよ」

山田は「おかん」の隅々まで案内した。六坪ほどの小さな店内。カウンター席が八席、テーブル席が三卓。奥には小さな個室が一つ。清潔感のある木の温もりが心地よい空間だった。

「そしてこちらが厨房」

厨房では、昨日も見かけた村上が黙々と仕込み作業をしていた。村上は一瞬だけ金子に目を向け、小さく頷いただけで言葉はなかった。

「村上さんは口数が少ないけど、腕は確かだよ。二十年以上の経験がある」

山田がそう説明すると、村上はますます無言で仕事に集中した。

「これから徐々に覚えていけばいいから。まずは注文の取り方と配膳からだな」

山田は金子に基本的な接客マナー、注文票の書き方、お酒やドリンクの種類などを説明した。覚えることは多かったが、金子は必死にメモを取った。

「あ、他のスタッフが来たみたいだ」

裏口から入ってきたのは、若い女性と無口そうな男性だった。

「こちらが桜井ナナちゃん。首都芸術大学の学生で、週に三回バイトに来てくれてる」

「はじめまして!桜井ナナです。よろしくお願いします!」

茶色く染めた髪にナチュラルメイク、明るい笑顔が印象的な女性が元気よく挨拶した。二十代前半といったところだろう。

「そして、こちらが田中くん。無口だけど仕事は正確で信頼できるヤツだ」

「田中です」

短く答えただけで、田中は黙々と準備を始めた。三十代前半くらいの男性で、表情からは何も読み取れない。

「他にも吉田さんというパートのおばさんがいるけど、今日は休みだ」

金子は皆に丁寧に挨拶した。新人は自分だけでなく、年齢差も大きい。居心地の悪さを感じながらも、精一杯の笑顔を作った。

「さて、開店時間が近いな。金子くん、最初は私の横について見ていてくれ」

午後五時、「おかん」の営業が始まった。最初のお客は常連らしく、カウンターに座るなり村上に声をかけた。

「いつもの頼むよ!」

「ああ」

村上の返事はそれだけだったが、すぐに調理に取りかかった。手際の良さに金子は見とれてしまう。

「村上さんの『親子丼』は絶品なんだ」と山田が小声で教えてくれた。「他にも『出汁巻き玉子』と『煮魚』が人気メニューだよ」

夕方から徐々にお客が増え始め、七時頃には店内が満席になった。金子は山田の指示に従い、水やお茶の提供、空いた皿の下げ、テーブル拭きなどの簡単な仕事を担当した。

「金子さん、三番テーブルのお客様、お冷やの追加希望です!」

ナナが声をかけてきた。彼女の仕事ぶりは素早く、テキパキとしている。学生とは思えない手際の良さだった。

「あ、はい!」

金子は急いで水の入ったグラスを用意し、三番テーブルへと向かった。しかし、店内は混雑しており、通路を行き交う客やスタッフで狭い。

「すみません、お冷やの追加で…」

言葉が終わらないうちに、横から来た客と肩がぶつかった。グラスが傾き、水がこぼれる。

「あっ!」

水はテーブルクロスを濡らし、一部はお客の服にまで及んだ。

「申し訳ありません!」

金子は慌ててハンカチを取り出し、拭こうとした。

「大丈夫ですよ、ちょっとだけですから」

客は優しく言ってくれたが、金子の顔は熱くなった。最初の失敗だ。

「タオルを持ってきます」

タオルを取りに行こうとした時、厨房から村上の視線を感じた。厳しい目で、失敗した新人を見ているようだった。

「気にするな」山田が肩をポンと叩いた。「初日だ。誰でもミスはする」

その言葉に多少救われたが、金子の心は沈んだまま。その後も小さなミスが続いた。オーダーの聞き間違い、レジの操作ミス、料理を運ぶタイミングのずれなど。一つ一つは大きな問題ではなかったが、積み重なると自信を喪失していく。

「四十一歳にもなって、こんな簡単なことも…」

内心で自分を責める金子だったが、表情には出さないよう努めた。

「金子さん、頑張ってますね!」

忙しい合間に、ナナが優しく声をかけてくれた。

「いえ、全然ダメです。迷惑ばかり…」

「そんなことないですよ。私も最初の一週間は毎日何かやらかしてました」

彼女の明るさが、少し気持ちを軽くしてくれた。

午後十時、ラストオーダーの時間になり、客足もようやく落ち着いてきた。金子は疲れた体を引きずりながらも、テーブルの片付けを続けた。手も足も痛み、腰は重い鉛のようだった。印刷会社の営業時代も忙しかったが、この種の労働は初めてで、体が悲鳴を上げていた。

「お疲れ様」

片付けの終わった店内で、山田がビールを注いだ。

「これで今日の営業は終了だ。初日の慰労に一杯どうだ?」

疲れた金子にとって、冷えたビールは天国の味がした。一口飲むと、緊張が解けていくのを感じた。

「どうだった?初日は」

「正直、大変でした…」

「慣れるよ。それに、お客さんへの対応は悪くなかった。柔らかい物腰がいいね」

意外な褒め言葉に、金子は少し照れた。印刷会社での顧客対応の経験は、ここでも役立つことがあるようだ。

「明日も頑張ってくれ。初めは週三日からで、様子を見ていこう」

「はい、ありがとうございます」

帰り支度をしていると、厨房から村上が出てきた。金子に向かって何か言いかけたが、結局何も言わずに帰っていった。

「村上さんは認めるのに時間がかかるタイプだからね」と山田は笑った。「気にしないで」

夜の街を歩きながら、金子は今日一日を振り返った。失敗も多かったが、不思議と充実感もあった。特に、村上の調理する姿を間近で見られたことは、密かな喜びだった。

「明日はもっと上手くやろう」

そう決意しながら、金子は疲れた体を引きずって帰路についた。

2-2:ホールでの失敗

「すみません、ビールの大と、焼き鳥の盛り合わせをお願いします」

「かしこまりました。ビールの大と焼き鳥の盛り合わせですね」

金子は復唱しながら、注文票に記入した。バイト開始から一週間が経ち、少しずつ仕事に慣れてきた。オーダーの取り方や料理の運び方など、基本的な動きは身についてきた。しかし、まだ完全に自信が持てるわけではない。

「七番テーブルの注文です」

厨房に注文票を渡す時、金子は村上の顔を見た。村上はいつもと変わらず無言で、票を受け取るとすぐに調理に取りかかった。

この一週間、村上と言葉を交わしたのは業務連絡程度。それでも、金子は彼の仕事ぶりから多くのことを学んでいた。包丁の使い方、火加減の調整法、盛り付けの美学…。遠くから見ているだけだが、プロの技を間近で観察できることは、密かな喜びだった。

「金子さん、五番テーブルのお客様が追加オーダーです」

ナナが声をかけてきた。彼女はいつも元気で、明るい空気を店内に運んでくる。初日から優しく接してくれ、仕事のコツも教えてくれた。

「ありがとう、行ってきます」

五番テーブルに向かう途中、金子は注文内容を確認しようと注文票を見直した。その隙に、通りがかった客と肩がぶつかる。

「すみません!」

金子が謝ると、客も軽く謝った。幸い、今回は何もこぼさずに済んだ。しかし、こうした小さなミスはまだ日常茶飯事だった。

「五番テーブルのお客様、追加のご注文をお伺いします」

「ああ、日本酒の熱燗と、もう一品、何かおすすめある?」

「はい、本日のおすすめは『村上特製 出汁巻き玉子』が…」

「じゃあ、それと、あと…生ビールも一杯」

「かしこまりました。日本酒の熱燗、出汁巻き玉子、生ビール大でよろしいですか?」

「ああ」

金子は注文を復唱し、メモに記入した。復唱の習慣は山田に教わったもので、ミスを減らすための基本だという。

厨房に戻り、注文を伝える。村上は「出汁巻き玉子」というワードだけに反応したように見えた。少し表情が引き締まり、真剣さが増す。どうやらそれは村上の得意料理らしかった。

しばらくして料理が完成し、金子は注文通りにテーブルに運んだ。完璧な出汁巻き玉子は、淡い黄色で艶やかに輝いていた。

「こちらが、村上特製 出汁巻き玉子です」

客は満足げに料理を受け取った。しかし、しばらくして問題が発生した。

「すみません、生ビールを注文したんですが…」

「はい?生ビールですね、今確認します」

金子は慌てて注文票を見直した。確かに「生ビール大」と書いてある。しかし、配膳されていない。厨房に戻り、ドリンク担当の田中に確認すると、オーダーは来ていないという。

「申し訳ありません、すぐにお持ちします」

金子は謝りながら、急いでビールを用意した。注文は受けていたのに、伝え忘れたのだ。こうしたミスが時々起こる。特に忙しい時間帯は、頭が混乱しがちだった。

「また間違えたのか」

背後から村上の声がした。珍しく金子に直接言葉をかけてきた。

「はい、すみません…」

「料理は待たせるもんじゃない。特に出汁巻きは出来立てが命だ」

村上の言葉は厳しかったが、その目には真剣さがあった。料理に対する誇りと情熱を感じる。金子は深く頭を下げた。

「申し訳ありません。気をつけます」

その夜は特に忙しく、金子のミスも続いた。レジの操作を間違え、お釣りを少なく渡してしまう。幸い、山田が気づいて事なきを得たが、冷や汗が出た。

「大丈夫か?」

休憩時間に、山田が声をかけてきた。

「すみません、まだ慣れなくて…」

「焦らなくていい。でも、基本は大事だぞ。注文を受けたら必ず復唱、メモに書いたらすぐに伝える。この流れを徹底すれば、ミスは減る」

金子は静かに頷いた。当たり前のことなのに、忙しくなると基本が疎かになる。まだまだ修行が足りない。

「それにしても、村上さんの出汁巻き玉子は素晴らしいですね」

話題を変えようと、金子は感心したことを口にした。

「ああ、あれは村上の代表作だ。実は出汁の引き方から全てにこだわっている。昆布と鰹節の配合比率や、卵を泡立てる強さまで、全て計算されているんだ」

山田の話を聞きながら、金子は料理の奥深さを感じた。表面上は単純な料理に見えても、そこには緻密な技術と知識が詰まっている。

休憩が終わり、再び忙しい時間が始まった。金子は気を引き締めて臨んだが、最大の試練はこれからだった。

「あれ?金子君じゃないか」

突然、カウンター席に座った客が金子に声をかけた。見ると、藤原印刷時代の取引先だった佐々木部長だった。

「佐々木さん…」

金子は動揺した。印刷会社の営業マンから居酒屋のバイトへ。その転落を目の当たりにされる屈辱感で、顔が熱くなった。

「藤原印刷がなくなったって聞いたけど、まさかここで働いてるとは…」

佐々木の言葉には悪意はなかっただろうが、金子にとっては針のように鋭く刺さった。

「はい、ちょっと…縁があって」

「そうか…大変だな」

同情的な視線が、さらに金子の自尊心を傷つけた。

「お飲み物はいかがいたしますか?」

金子は何とか平静を装い、注文を聞こうとした。

「ああ、生ビールと、何かおつまみを」

「本日のおすすめは…」

説明している最中も、佐々木の視線が金子を値踏みするように感じられた。かつては対等なビジネスパートナーだった関係が、今は客と従業員という上下関係に変わってしまった。

注文を受け、厨房に向かう途中、金子は手が震えていることに気づいた。動揺で集中力が途切れ、佐々木の注文を書き忘れていた。慌てて戻ろうとした時、足がもつれ、手に持っていたグラスを落としてしまった。

「割っちゃった…」

ガシャンという音に、店内の客が振り向いた。床に散らばったガラスの破片に、金子の心も粉々に砕けた気がした。

「大丈夫?」

ナナが駆け寄ってきて、一緒に片付け始めた。

「ありがとう…ごめん」

「いいんですよ、私も何度もやりましたから」

彼女の優しさが、余計に恥ずかしさを増した。四十一歳の男が、二十歳そこそこの女子大生に慰められている。

片付けが終わり、やっと佐々木の注文を取りに行った時には、すでに田中が対応していた。おそらく、金子の様子を見て山田が指示したのだろう。

「金子くん、ちょっとバックヤードで休んでいいよ」

山田が金子の肩に手を置いた。その優しさが、逆に惨めさを増幅させた。

バックヤードの小さな休憩スペースで、金子は深いため息をついた。かつての自分なら、佐々木のような取引先と対等に話し、時には冗談を言い合うこともあった。営業成績も悪くなかった。それが今や…

「何やってるんだろう、俺」

自問自答する金子の横を、村上が通りかかった。一瞬、二人の視線が合った。村上の目には何か言いたげな色があったが、結局何も言わずに立ち去った。

その日の閉店後、金子は再び一人、夜の街を歩いた。春の夜風は冷たく、心までを凍らせるようだった。

2-3:密かな趣味

実家に帰ると、既に両親は寝ていた。深夜零時を回っている。金子はそっと自分の部屋に入り、扉を閉めた。

「疲れた…」

小さく呟き、ベッドに身を投げ出す。体の疲れよりも、心の疲れの方が大きかった。佐々木との再会、ガラスを割った失態、村上の冷たい視線…。全てが重なり、自己嫌悪に陥っていた。

「あと二日…」

今週はあと二日のシフトが残っている。明日も明後日も、同じように失敗を重ねるのだろうか。そう思うと、胃が痛くなった。

しかし、不思議なことに「おかん」での仕事を辞めたいとは思わなかった。特に、村上の料理する姿を見ていると、何か心が動かされる感覚があった。あの無駄のない動き、食材への敬意、完成した料理への誇り。それらは金子の中で忘れかけていた何かを呼び覚ましていた。

「料理か…」

金子はゆっくりと起き上がり、クローゼットから段ボール箱を取り出した。中にはいくつかの調理器具が入っている。一人暮らしの時に少しずつ集めてきた愛用品だ。

「ティファール・プロフェッショナル」のフライパン。三万円以上したハイエンドモデルだ。普通のサラリーマンがこんな高価なフライパンを買うのは異例かもしれない。しかし、金子にとって料理は単なる趣味以上のものだった。

「シェフメイト」の圧力鍋も大切な一品。二万円近くしたが、煮込み料理の時短と味の染み込みに最適だった。

「久しぶりだな…」

金子は、フライパンを手に取り、その重みと質感を確かめた。これらの道具たちは、彼の数少ない自慢だった。誰にも見せることはないが、密かに集めた本格的な調理器具たち。

「よし」

突然、立ち上がった金子は、スマートフォンを手に取った。料理動画アプリを開き、最新の料理技術を学ぶことにした。「おかん」での仕事は辛いことも多いが、村上の技術を間近で見られることは、料理好きの金子にとって大きな学びの機会だった。

「この切り方…」

村上の包丁さばきを思い出しながら、金子は動画を見続けた。特に和食の基本技術、出汁の引き方、野菜の切り方などを集中的に研究した。

スマートフォンの画面を指でスクロールしながら、金子はノートに詳細なメモを取っていく。このノートには、レシピや調理技術だけでなく、温度と時間の関係図、食材の組み合わせ表など、科学的なアプローチも記録されていた。

「村上さんの出汁巻き玉子…あの黄金色はどうやって出しているんだろう」

金子は出汁巻き玉子の作り方を検索し、様々なレシピを比較した。卵と出汁の比率、砂糖の量、焼き方のコツ…。一つ一つを丁寧にノートに書き込んでいく。

「ここが違うのか…」

いくつかの動画を見比べた結果、出汁の濃さと卵を泡立てる強さが、仕上がりに大きく影響することがわかった。村上の出汁巻き玉子は、きっとこの両方を完璧に調整しているのだろう。

「明日、もっとよく観察してみよう」

金子はそう決意した。失敗続きのバイトだったが、料理を学ぶという観点では、貴重な経験になっていた。特に村上のような熟練料理人の技を間近で見られることは、独学では得られない価値があった。

時計を見ると、すでに午前二時を回っていた。明日も仕事があるのに、こんな時間まで起きているのは無謀かもしれない。しかし、料理の勉強に没頭している時間は、不思議と心が落ち着くのだった。

「そろそろ寝よう…」

ノートを閉じ、調理器具を箱に戻す。しかし、「ティファール・プロフェッショナル」のフライパンだけは手元に残した。明日、両親が出かけている隙に、何か作ってみようと思ったからだ。

ベッドに横になり、天井を見つめながら、金子は料理への情熱が再び燃え上がるのを感じていた。印刷会社の仕事では感じられなかった充実感。それはたとえバイトという立場でも、料理に関われることで得られる喜びだった。

「明日からもっと頑張ろう…」

その夜、金子は久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。

翌日、予定通り両親が外出した隙に、金子は台所に立った。持参した「ティファール・プロフェッショナル」のフライパンを取り出し、オムレツを作ることにした。

「温度を180度に…」

フライパンを熱し、バターを溶かす。溶き卵を流し込み、箸で大きく混ぜ、半熟状態になったところで火を弱める。包むように形を整え、ポンッと軽く叩いて空気を抜く。

「よし、できた」

皿に盛りつけられたオムレツは、外側はきつね色に焼け、中はふわっとした半熟状態。まさに金子が目指していた理想の状態だった。

「いただきます」

一口食べてみると、バターの香りと卵の甘みが口いっぱいに広がった。自分で言うのもなんだが、かなり美味しい。調理中は、まるで別人のように集中し、的確な動きで料理を完成させた。ホールでのぎこちなさとは対照的だった。

「これが本当の自分なのかもしれない…」

金子はそう思いながら、オムレツを味わった。料理をしている時の自分は、自信に満ち、動きに無駄がない。仕込みから盛り付けまで、全ての工程に喜びを感じる。

「でも、料理人には遅すぎる…」

四十一歳。プロの料理人を目指すには、もう遅いのかもしれない。それでも、この「おかん」での経験を通じて、少しでも料理の技術を学びたいと思った。

「帰ってきたわよ」

母の声がして、金子は慌ててフライパンを洗い始めた。彼の「密かな趣味」は、まだ両親に本格的には話していなかった。特に父親の「男が料理なんて」という価値観を思うと、どこか引け目を感じてしまう。

「何か作ったの?いい匂いがするわ」

母が台所に入ってきた。

「ちょっと、オムレツを…」

「あら、美味しそう。少し残してくれたのね」

皿に残ったオムレツの一部を、母が箸で取って食べた。

「おいしい!誠、上手ね。これ、特別なフライパンなの?」

鋭い観察眼で、母は金子のフライパンに気づいていた。

「うん、一人暮らしの時に買ったんだ。『ティファール・プロフェッショナル』っていう少し良いやつで…」

「そう…」

母は何か言いたげな表情をしたが、それ以上は追及しなかった。代わりに、

「今度、何か作ってくれない?お父さんも喜ぶと思うわ」

その提案に、金子は戸惑った。父親に料理を披露するという考えは、なぜか緊張させられた。

「いつか…機会があれば」

曖昧に答え、金子は自室に戻った。いつか父親にも認めてもらいたい。そんな思いが、心の奥底にあった。

2-4:父との軋轢

「遅くなるのか?」

夕食前、出かけようとする金子に、父・哲夫が声をかけた。

「はい、今日はバイトなので、夜中になります」

「そうか」

父の表情からは何も読み取れない。しかし、その短い返事の中に、どこか不満があるように感じられた。

「行ってきます」

「おう」

簡素な会話を交わし、金子は家を出た。実家に戻ってから三週間。「おかん」でのバイトも二週間が経過した。少しずつ仕事にも慣れてきたが、家族との関係は微妙なままだった。特に父親とは、ほとんど会話らしい会話をしていなかった。

「おかん」に到着すると、すでに山田とナナが準備を始めていた。

「やあ、金子くん。今日も頼むよ」

「はい、よろしくお願いします」

金子は手際よく制服に着替え、開店準備に取りかかった。テーブル拭き、グラスの点検、メニュー表の確認…。以前よりも効率的に動けるようになっていた。

「村上さんは?」

「厨房で仕込み中だよ。今日はちょっと顔色が悪くてね…」

山田の言葉に、金子は少し心配になった。厨房を覗くと、村上はいつも通り黙々と作業をしていたが、確かに顔色が優れない。普段から無口な人だが、今日は特に疲れた様子だった。

「大丈夫でしょうか…」

「まあ、あの人は自分から弱音を吐かないタイプだからね。でも、年齢的にも無理は禁物なんだけど…」

開店時間になり、次第に客が入り始めた。金子は慣れた様子で接客をこなしていく。オーダーの取り方も正確になり、レジ操作も円滑になった。それでも、たまにミスをすることはあったが、致命的な失敗は減っていた。

「金子さん、上手くなりましたね」

忙しい合間に、ナナが声をかけてきた。

「まだまだです。ナナさんみたいにはいきません」

「そんなことないですよ。私なんて、まだ一年しか経ってないですから」

二人が談笑していると、厨房から物音がした。振り向くと、村上が具合悪そうに壁に寄りかかっていた。

「村上さん!」

金子が駆け寄ると、村上は苦しそうな表情をしていた。

「大丈夫…ちょっと、めまいが…」

「山田さん!村上さんが!」

金子の叫びに、山田が急いで駆けつけた。

「おい、どうした!?」

「めまいと…胸が苦しい…」

村上の症状を聞いた山田は、すぐに判断した。

「救急車を呼ぼう」

救急車が到着するまでの間、金子は村上のそばについていた。普段は厳しい表情の村上が、今は弱々しく見える。その姿に、金子は胸が締め付けられる思いがした。

救急車が到着し、村上は病院に運ばれていった。山田も付き添うことになり、「おかん」は臨時休業となった。

「明日のことはまた連絡するよ。皆、今日はもう帰っていいよ」

山田の言葉に、スタッフたちは静かに頷いた。

「村上さん、大丈夫でしょうか…」

店を出る時、金子はナナに不安を口にした。

「きっと大丈夫ですよ。村上さん、強い人ですから」

ナナの言葉には優しさがあったが、心配は消えなかった。

その晩、金子は落ち着かない気持ちで家に帰った。まだ九時前で、両親は起きていた。

「早かったじゃない」

母が驚いた様子で出迎えた。

「はい、ちょっと店の都合で…」

父はテレビを見ながら、何も言わなかった。

「何かあったの?」

母の質問に、金子は簡単に状況を説明した。

「料理長が具合悪くなって、救急車で…」

「まあ、大変ね」

「ああ、だから明日どうなるかわからなくて…」

その会話を聞いていた父が、ふと口を開いた。

「いつまでそんなバイトを続けるつもりだ?」

唐突な質問に、金子は戸惑った。

「え?」

「四十過ぎて、居酒屋のバイトなんて…いい加減、まともな仕事を探せ」

父の言葉は冷たかった。期待と失望が入り混じったような口調だった。

「今は、これしか…」

「探し方が悪いんだ。公務員の採用試験だって、年齢制限が緩和されている部署もある。それとも、プライドが邪魔してるのか?」

金子は言葉に詰まった。確かに、最初は正社員としての再就職だけを考えていた。しかし、「おかん」でのバイトを始めてから、少しずつ考えが変わってきていた。

「そうじゃないですけど…」

「おい、お前はもう四十一だぞ。人生の半分以上が終わってるんだ。このままフラフラしていたら、老後はどうするつもりだ?」

父の声が大きくなった。それは純粋な心配からくるものだったのかもしれないが、金子には責められているように感じられた。

「お父さん、そんな言い方…」

母が仲裁に入ろうとしたが、

「いや、言わなきゃわからんだろう。男が料理なんて、そんなもので一生食っていけるとでも思ってるのか?」

父の「男が料理なんて」という言葉が、金子の胸を強く締め付けた。これは幼い頃から何度も聞かされてきた言葉だった。その度に、金子は自分の料理への情熱を押し殺してきた。

「…」

金子は黙り込んだ。反論しようにも、言葉が見つからなかった。確かに、四十一歳からプロの料理人を目指すのは現実的ではないかもしれない。かといって、今更印刷業界に戻るのも難しい。

「じゃあ、父さんはどうすれば良いと思いますか?」

やっと出た言葉は、冷静さを装っているものの、その奥には怒りと悲しみが混ざっていた。

「まず、ハローワークに行って、真面目に探せ。年齢不問の求人だってある。それか、派遣でもいい。とにかく正社員を目指せ」

現実的なアドバイスかもしれないが、金子の心には届かなかった。父は「安定」だけを考えている。しかし、金子は最近、「充実感」について考えるようになっていた。

印刷会社では安定していたが、心から満足していたわけではなかった。一方、「おかん」でのバイトは不安定でも、料理を間近で見られる喜びがあった。

「考えておきます…」

それだけ言って、金子は自室に向かった。背後で母が何か言っているのが聞こえたが、もう聞く気力はなかった。

部屋に入り、鍵をかけた金子は、ため息をついた。父との会話は、いつもこんな風に終わる。理解し合えない溝が、二人の間に広がっているようだった。

「料理なんて…か」

その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。大学時代、料理の道に進みたいと思ったこともあった。しかし、父のこの一言で、その夢を諦めた。そして今、四十一歳になって再び同じ言葉を聞くことになるとは。

金子はベッドに座り、スマートフォンを取り出した。山田からの連絡を待っていたが、まだ何もない。村上の容態は大丈夫だろうか。

「仕方ない…」

スマートフォンを置き、金子は料理研究ノートを開いた。村上の技術についてのメモ、「おかん」のメニューの分析、改善点のアイデアなど。このノートは、最近の金子の心の支えになっていた。

「男が料理なんて…」

もう一度、父の言葉が頭をよぎる。しかし今回は、少し違う感情が湧いてきた。

「本当にそうなのか?」

村上は立派な料理人だ。そして男性だ。「おかん」の料理長として、多くの人に喜びを与えている。それは立派な仕事ではないのか。

「もし…村上さんの代わりに、俺が…」

金子は考え始めた。もし村上の病気が長引くようなら、「おかん」は料理人不足になる。そこで…

「いや、無理だ」

すぐに現実に引き戻された。バイトを始めて二週間の素人が、プロの料理人の代わりができるわけがない。それに、自分はホールスタッフとして雇われたのだ。

それでも、もし機会があるなら…料理を作る立場になれたら…。

金子はそんなことを考えながら、ノートに新たなアイデアを書き始めた。「もし自分が『おかん』の料理を任されたら」というタイトルで。それは単なる空想に過ぎないが、書いているうちに心が落ち着いてきた。

スマートフォンが震えた。山田からのメッセージだ。

「村上は脳梗塞の初期症状。今のところ大事には至らないが、しばらく入院が必要とのこと。明日の営業は何とかするので、通常通り来てください」

金子は安堵のため息をついた。大事に至らなくて良かった。しかし、「しばらく入院」という言葉が気になった。それは「おかん」にとって大きな問題だろう。料理長不在では、営業にも影響があるはずだ。

「明日、どうするんだろう…」

そう考えながら、金子は明日への不安と期待を胸に、眠りについた。