呼吸と味わう人生 第3章:呼吸の一歩

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3-1:繁忙期の混乱

金曜日の夕方六時。「おかん」は既に満席の状態だった。村上の入院から三日目。厨房には臨時で雇われたパートタイムの料理人・佐藤が立っていたが、村上の代わりを完全に務めることはできず、メニューは限定的になっていた。

「金子くん、三番テーブル、焼き鳥と冷奴!」

山田が声をかける。金子は急いで注文を復唱し、厨房へと向かった。店内は熱気と活気で満ちていた。金曜の夜は、一週間の仕事を終えたサラリーマンや近隣のオフィスワーカーたちが大挙して押し寄せる。

「佐藤さん、焼き鳥と冷奴お願いします」

「はい、了解」

佐藤はベテランの料理人だが、「おかん」のメニューには不慣れで、村上のような速さと正確さはなかった。それでも、基本的な料理はこなせるため、何とか営業を続けられていた。

「ナナちゃん、八番テーブルのオーダー取って!」

山田の指示で、ナナが新しく入店した客に向かう。金子は別のテーブルへ料理を運んだ。

「すみません、ビール中ジョッキ二つと、枝豆をお願いします」

「かしこまりました」

金子は笑顔で応じながら、頭の中で注文を整理する。開店から一時間、既に十件以上の注文を処理していた。以前よりも効率的に動けるようになったが、この忙しさはまだ慣れないものだった。

特に今夜は、近くのIT企業の歓迎会グループが来店し、大量の注文と大きな声で店内はさらに活気づいていた。

「金子さん、ちょっと手伝って!」

カウンターで田中が呼ぶ。彼は一人でドリンク全般を担当していたが、注文が殺到して手が回らなくなっていた。

「はい!」

金子は急いで向かい、グラスを拭き始めた。田中の動きを真似て、ビールを注ぐ。泡の加減が難しく、最初はうまくいかなかったが、数回目には少し要領を掴んだ。

「こんなに忙しいのは珍しいですか?」

「いや、金曜は毎週こんな感じ。でも今日は特別だ。村上さんがいないから厨房が遅れてる」

田中の言葉通り、料理の提供速度が落ちていることは明らかだった。厨房からは佐藤の焦った声が聞こえる。

「山田さん、このペースじゃ回らないぞ!」

「分かってる!でも何とかしてくれ!」

二人のやり取りに、緊張感が高まる。客からも「注文した焼き鳥はまだか?」「ビールが足りない!」といった声が上がり始めた。

金子は汗を拭きながら、次々と注文を捌いていく。一時間前に休憩できると思っていたが、その余裕はまったくなかった。

「すみません、お待たせしました」

IT企業グループの大人数テーブルに、やっと料理が揃った。金子が最後の一品を置いた時、ひときわ大きな声で酔った男性が叫んだ。

「おい!これ違うじゃないか!鶏の唐揚げ頼んだのに、なんだこれは?」

男性が指差したのは、鶏の竜田揚げだった。

「すみません、只今確認します」

金子はオーダー票を見直したが、確かに「竜田揚げ」と書いてある。

「いや、俺は唐揚げって言ったぞ!聞き間違えたのか?」

男性の声が大きくなり、周囲の客も振り向き始めた。金子は冷や汗を流しながら、丁寧に対応しようとする。

「大変申し訳ございません。唐揚げをすぐにお作りします」

「いいよ、これでいい。でも次から気をつけろよ」

男性は不満げな表情を浮かべながらも、料理に箸をつけた。金子はほっと胸をなでおろす。しかし、緊張感からか、急に心臓がドキドキと激しく打ち始めた。

「大丈夫か?」

横を通りかかった山田が、金子の顔色の悪さに気づいた。

「はい…ちょっと疲れただけです」

「無理するなよ。少し休憩したら?」

「いえ、大丈夫です。みんな忙しいのに、私だけ…」

金子は言葉を切り、再び仕事に戻った。しかし、心臓の鼓動は収まらず、むしろ強くなっているように感じた。胸が締め付けられるような感覚。呼吸も浅くなっていく。

「次は…七番テーブル…」

頭の中が混乱し始めた。周囲の声や音が、どこか遠くから聞こえるように感じる。視界がぼやけ、手足がしびれてきた。

「金子さん?」

ナナの声が聞こえる。しかし、返事をする力が出ない。

「金子さん!どうしたんですか?」

ようやく金子は口を開いた。

「ちょっと…息が…」

それが限界だった。金子は壁に寄りかかり、ゆっくりと床に座り込んだ。呼吸ができない。死ぬのではないかという恐怖が全身を支配した。

「山田さん!金子さんが!」

ナナの叫び声で、山田が駆けつけた。

「おい、大丈夫か?!」

金子は首を振るだけで、言葉が出ない。冷や汗が額から流れ落ち、体が震えている。

「バックヤードに連れていこう」

山田とナナに支えられ、金子はバックヤードの休憩スペースへと運ばれた。店内の喧騒から離れても、恐怖と不安は収まらなかった。

「深呼吸してみろ。ゆっくりと…」

山田の指示に従おうとするが、呼吸が思うようにコントロールできない。

「水、持ってきました」

田中が水を差し出した。金子は震える手でコップを受け取り、一口飲む。冷たい水が喉を通り、少しだけ現実感が戻ってきた。

「初めてか?こういう発作は」

山田の問いに、金子は小さく頷いた。何が起きているのかわからないが、自分の体が勝手に反応しているようだった。

「パニック発作かもしれないな。俺も昔、経験したことがある」

山田の言葉に、金子は驚いた。いつも明るく頼りになる山田にも、こんな経験があったのか。

「先生、大丈夫ですか?」

突然、見知らぬ声がした。振り向くと、五十代後半と思われる落ち着いた雰囲気の男性が立っていた。

「沢村さん…」

山田は男性を認めて名前を呼んだ。

「ちょうど来店していたところです。何かあったようですね」

「ああ、うちの新人がちょっと…」

沢村と呼ばれた男性は、金子の様子を見て静かに言った。

「過呼吸ですね。大丈夫、落ち着きましょう」

沢村は金子の隣に座り、穏やかな声で話し始めた。

「私と一緒に呼吸してみましょう。まず、鼻から息を吸って…」

沢村は自ら見本を見せながら、ゆっくりと深呼吸を始めた。

「そう、吸って…3秒間止めて…そして口からゆっくりと吐く…」

金子は必死に沢村の指示に従った。最初は困難だったが、沢村の穏やかな声と存在感に導かれるように、少しずつ呼吸が整っていった。

「そうです、その調子。もう一度…吸って…止めて…吐く…」

数分間、沢村の導きでゆっくりと呼吸を繰り返すうちに、金子の震えが収まっていった。心臓の鼓動も落ち着き、頭の中の混乱も徐々に晴れていった。

「どうですか?少し楽になりましたか?」

沢村の問いかけに、金子は小さく頷いた。

「はい…ありがとうございます…」

「焦る必要はありません。こういう発作は誰にでも起こりうるものです。特に緊張状態が続いていると…」

沢村の言葉には不思議な説得力があった。金子は彼が何者なのか気になったが、まだ完全に回復していない体で質問する余裕はなかった。

「沢村さん、ありがとう。助かったよ」

山田がお礼を言うと、沢村は微笑んだ。

「いえ、お役に立てて良かった。私も若い頃は似たような経験がありましたから」

その言葉に、金子は再び驚いた。この落ち着いた男性も、かつては自分と同じような苦しみを経験していたのか。

「金子くん、今日はもう帰りなさい。無理は禁物だ」

山田の言葉に、金子は申し訳なさを感じた。

「すみません…こんな忙しい時に…」

「心配するな。体が一番大事だ。明日は休みだろ?ゆっくり休むといい」

山田の優しさに、金子は深く頭を下げた。

「沢村さん、またお店に迷惑をかけてしまって…」

「いえいえ、気にしないでください。それより…」

沢村は懐から名刺を取り出した。

「よかったら、明日にでも私の教室に来てみませんか?こういった症状には、呼吸法と瞑想が効果的です」

金子は戸惑いながらも、名刺を受け取った。「沢村道場 ―呼吸と瞑想の空間―」と書かれている。

「ありがとうございます…検討します」

「では、お大事に」

沢村は軽く会釈し、再び店内へと戻っていった。

金子は田中に付き添われ、更衣室で着替えた。体はまだ完全には回復していなかったが、呼吸は安定していた。

「すまない、迷惑をかけて…」

「気にするな。俺も一度やられたことがある。最初は誰でも大変だ」

田中の意外な打ち明け話に、金子は少し救われた気がした。

店を出る時、ナナが声をかけてきた。

「金子さん、大丈夫ですか?」

「ああ、だいぶマシになりました。心配かけてごめんね」

「いえいえ!無理しないでくださいね。私も最初の頃は毎日泣きそうでしたから」

ナナの明るい言葉に、金子は弱々しく笑顔を返した。

夜の空気が冷たく感じられた。金子はゆっくりと歩き始めながら、沢村という男性のことを考えていた。あの落ち着いた佇まい、穏やかな声、そして確かな知識。不思議な出会いだったが、どこか運命的なものを感じた。

ポケットの中の名刺が、微かに存在感を主張している。明日、行ってみようかと金子は考え始めた。

3-2:パニック発作

翌日の午前中、金子は実家の自室でじっと天井を見つめていた。昨夜の出来事が頭から離れない。あの息苦しさ、恐怖、無力感…。二度と経験したくないと思う反面、なぜ自分がそうなったのか、理解したいという気持ちもあった。

「沢村道場…」

ポケットから取り出した名刺を、もう一度眺める。住所は駅から徒歩十分ほどの場所。電話番号と共に「心と体の調和を目指して」というキャッチフレーズが記されていた。

「行ってみようかな…」

金子は起き上がり、スマートフォンで「パニック発作」と検索し始めた。様々な情報が出てくる。「強い不安や恐怖を伴う発作性の症状」「過呼吸」「死の恐怖」…。昨夜の症状とぴったり一致していた。

「原因は…ストレスか」

確かに最近は様々なストレスを抱えていた。職を失ったこと、再就職の難しさ、父との確執、そして「おかん」での新しい仕事の緊張感。それらが積み重なり、昨夜の混乱した状況で爆発したのだろう。

「瞑想は効果的…」

検索結果の中に、パニック発作の緩和法として瞑想や呼吸法が挙げられていた。沢村の言葉と一致している。

「よし、行ってみよう」

金子は決心し、準備を始めた。外出する旨を母に伝え、沢村道場の場所を地図アプリで確認する。

駅を降り、静かな住宅街を歩いていくと、小さな古民家が見えてきた。門には「沢村道場」と書かれた控えめな看板が掛かっている。

「ここか…」

緊張しながらも、金子は門をくぐった。玄関の前で靴を脱ぎ、上がり框に立つと、中から沢村の声がした。

「どうぞ、お入りください」

声のする方へ進むと、六畳ほどの和室があり、沢村が正座して待っていた。

「やあ、来てくれたんですね。金子さん」

沢村は穏やかに微笑んだ。昨夜とは違い、紺色の作務衣姿だった。

「はい…お時間よろしいでしょうか」

「もちろん。今日はちょうど個人セッションの空き時間です」

金子は部屋に入り、沢村の前に座った。部屋は極めてシンプルで、飾り気はなく、ただ窓から差し込む光と、一輪の花が活けられた花瓶があるだけだった。

「昨日は大変でしたね」

「はい…あんな経験は初めてで…本当に死ぬのかと思いました」

「パニック発作はそういうものです。私も経験がありますから、その恐怖はよくわかります」

沢村の言葉に、金子は少し安心した。この人は自分の苦しみを理解してくれる人なのだと。

「なぜ、あんな状態になったんでしょうか…」

「いくつか要因がありますね。身体的な疲労、精神的なストレス、そして最も重要なのは『呼吸』です」

「呼吸…」

「はい。人間は緊張すると、自然と呼吸が浅く速くなります。すると血中の二酸化炭素濃度が下がり、めまいや手足のしびれ、胸の締め付けなどを引き起こします」

沢村の説明は明快で、金子には腑に落ちた。

「それを防ぐには、どうすればいいのでしょうか」

「呼吸を意識的にコントロールすることです。昨日、一緒にやった深呼吸の方法を覚えていますか?」

金子は頷いた。

「あれが基本ですが、もう少し体系的に学んでみませんか?」

「ぜひお願いします」

沢村は穏やかに微笑み、金子に正座の姿勢を教え始めた。

「まず、背筋を自然に伸ばします。力まず、でも脱力しすぎず…そう、その姿勢がいいですね」

沢村の指導は丁寧で、細部まで気を配りながらも押し付けがましくない。金子は自然と彼の教えに従っていた。

「では、目を閉じて、鼻から息を吸ってみましょう。その際、お腹が膨らむことを意識してください」

金子は言われた通りに実践する。最初は意識して呼吸することに違和感があったが、徐々に慣れていった。

「息を吐く時は、口からゆっくりと。吸う時より長い時間をかけて…」

沢村の声に導かれ、金子は呼吸に集中した。すると不思議なことに、昨夜の緊張感が少しずつ溶けていくような感覚があった。

「呼吸に合わせて、『今、ここ』という言葉を心の中で繰り返してみてください。過去でも未来でもなく、今この瞬間に意識を向けるのです」

「今、ここ…」

金子は小さく呟きながら、呼吸を続けた。時間の感覚が少しずつ変化していく。いつもは絶え間なく働いていた頭の中の思考が、静かになっていくのを感じた。

何分が経過したのか定かではなかったが、沢村が静かに言った。

「では、ゆっくりと目を開けてください」

金子が目を開けると、不思議と部屋の色彩がより鮮やかに感じられた。空気の質感まで違って見える。

「どうでしたか?」

「不思議な感覚です…頭の中が、クリアになったような…」

「それが瞑想の効果の一つです。思考の嵐を一時的に静め、本来の自分に戻る。そうすることで、パニックの引き金となるネガティブな思考パターンから距離を取ることができるんです」

金子は感動していた。たった十分ほどの実践で、こんなにも心が軽くなるとは。

「沢村さんは、こういう教室をされているんですか?」

「はい。かつては料理人だったのですが、四十代で大きな挫折を経験し、心身のバランスを崩しました。その時に出会ったのが瞑想だったんです」

「料理人…だったんですか?」

金子は驚いた。自分と似た境遇の人だったとは。

「そうです。銀座の料亭で働いていました。『一水』という店です」

「一水!」

金子は思わず声を上げた。「一水」は東京でも有数の名店で、雑誌やテレビでもよく取り上げられる高級料亭だった。

「ご存知でしたか」

「はい、料理雑誌で見たことがあります。素晴らしい店だと…」

「ええ、良い店でした。私はそこで二十年近く働き、最後の十年は料理長を務めていました」

金子はますます驚いた。目の前にいるのは料亭の料理長という一流の料理人だったのだ。

「なぜ、料理の道を…」

「過労とプレッシャーですね。毎日が戦いでした。一品でも失敗すれば評判に響く。そんな緊張の連続に、心も体も耐えられなくなったんです」

沢村は穏やかな表情のまま、過去を振り返った。

「ある日、厨房で私も金子さんと同じようなパニック発作を起こしました。手が震えて包丁が持てない。それは料理人としては致命的でした」

「それで…」

「医師から休養を勧められ、知人の紹介で禅寺に滞在することになったんです。そこで出会ったのが瞑想でした」

沢村の話に、金子は引き込まれていった。同じような経験をした人の言葉には、特別な重みがあった。

「瞑想を通じて、私は自分自身を見つめ直しました。料理への情熱はそのままに、どうすれば心身のバランスを保てるか。そして気づいたんです。料理も瞑想も、本質は『今この瞬間に集中すること』なのだと」

「今この瞬間…」

「そうです。包丁を持つ時、火加減を調整する時、盛り付ける時…全ての瞬間に、全神経を集中させる。それは究極の瞑想だとも言えるんです」

沢村の言葉に、金子は深く頷いた。確かに、料理をしている時の自分は、余計な思考がなく、ただ目の前の作業に没頭している。それは穏やかで充実した時間だった。

「金子さんも料理がお好きなんですか?」

「え?どうして…」

「昨日、山田さんが少し話していました。それに、料理の話をした時の金子さんの目の輝きを見れば分かります」

見透かされたような気がして、金子は少し恥ずかしくなった。

「はい…実は大学時代、料理部で…」

そこから金子は、自分の料理への情熱、印刷会社での二十年、そして現在の状況まで、言葉が止まらないように話し始めた。沢村は静かに、時折頷きながら聞いていた。

「なるほど…」

話し終えた金子に、沢村は微笑みかけた。

「料理への情熱があるなら、それを大切にするといい。私のようにならないためにも、心と体のバランスを保ちながら」

「でも、父は…」

「ご両親の心配も理解できます。しかし、最終的には金子さん自身の人生です。四十一歳。まだまだこれからですよ」

その言葉が、金子の心に染み入った。そうだ、まだ人生は長い。新しい一歩を踏み出すのに、遅すぎることはないのだ。

「沢村さん、定期的に教えていただけないでしょうか」

「もちろんです。毎週水曜と土曜に初心者向けのクラスを開いています。よかったら参加してみてください」

「ぜひお願いします」

沢村は立ち上がり、奥の棚から小さな冊子を取り出した。

「これは初心者向けの呼吸法のガイドです。毎日数分でいいので、実践してみてください」

「ありがとうございます」

金子が冊子を受け取ると、沢村は最後にアドバイスをくれた。

「そして、できれば毎日同じ時間に実践することをお勧めします。習慣化することで、効果が格段に上がります」

「わかりました」

帰り際、金子は玄関で振り返った。

「本当にありがとうございました。助かりました」

「こちらこそ。新しい出会いに感謝します」

沢村との出会いは、金子にとって大きな転機となりそうな予感がした。

帰宅途中、金子は立ち寄った公園のベンチに座り、沢村からもらった冊子を開いた。シンプルながらも深い内容が書かれている。様々な呼吸法の説明と共に、日常生活への取り入れ方も詳しく記されていた。

「毎朝五分…これならできそうだ」

金子は決意を新たにした。この瞑想と呼吸法を生活に取り入れることで、昨日のようなパニック発作を防ぎたい。そして、もっと大きな目標として、自分自身の人生の方向性を見つめ直すきっかけにしたいと思った。

「今、ここ」

沢村の教えた言葉を心の中で繰り返しながら、金子は深呼吸した。春の風が頬を撫で、新たな可能性を感じさせてくれた。

3-3:同僚たちの反応

月曜日、金子は少し緊張しながら「おかん」に向かっていた。金曜のパニック発作以来、初めての出勤だ。山田に連絡はしていたが、他のスタッフたちの前でどんな顔をすればいいのか、少し不安だった。

「おはようございます」

店に入ると、山田が出迎えてくれた。

「やあ、金子くん。元気そうだな」

「はい、だいぶ良くなりました。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「気にするな。それより、沢村さんの所には行ってみたのか?」

「はい、土曜日に行ってきました。とても良かったです」

「そうか。沢村さんはいい人だからな。昔は有名な料理人だったんだぞ」

「はい、お聞きしました。銀座の『一水』で…」

二人が話している間に、ナナと田中も到着した。

「あ、金子さん!お元気になられて何よりです!」

ナナが明るく声をかけてきた。その純粋な心配の表情に、金子は心が温かくなった。

「ありがとう、ナナさん。心配かけてごめんね」

「いえいえ!私も最初の頃は毎日泣きそうでしたから、気持ちわかります!」

田中も無口ながらも、「大丈夫か?」と声をかけてくれた。皆が自分を気にかけてくれていることに、金子は感謝の気持ちでいっぱいになった。

「それにしても…」

山田が少し声を落として言った。

「村上の容態が思わしくないんだ」

「え?」

「脳梗塞の症状が残っていて、リハビリが必要だって。少なくとも一ヶ月は復帰できないらしい」

その知らせに、金子は驚いた。村上が長期間不在というのは、「おかん」にとって大きな問題だ。

「それで、代わりの料理人は…」

「佐藤さんが週に三日は来てくれるが、他の日は…」

山田は苦しそうな表情をした。

「正直、厳しい状況だ。村上の料理は『おかん』の看板なんだ。それがないと…」

言葉には出さなかったが、経営的に厳しくなる可能性を示唆しているのだろう。金子は心配になった。

「何か、私にできることはありませんか?」

「いや、金子くんは自分の体調を第一に考えてくれ。あんな状態になったのに、無理はさせられないよ」

山田の優しさが、逆に金子の決意を固めた。

「大丈夫です。沢村さんから呼吸法を教わって、だいぶ落ち着いています。それに…」

金子は少し躊躇したが、勇気を出して続けた。

「実は、私…料理ができるんです」

「え?」

「大学時代に料理部で活動していて、基本的な和食なら…」

山田は驚いた表情で金子を見た。

「そういえば、初日に少し話していたな。でも、プロレベルというわけでは…」

「もちろん村上さんのレベルには全く及びませんが、基本的な居酒屋メニューなら何とか…」

ナナが突然、話に割り込んできた。

「金子さん、料理ができるんですか?実は私、金子さんのお家で料理研究してるの知ってました!」

「え?どうして…」

「この前、お母さんとスーパーで偶然お会いして。『うちの息子は料理が趣味で』って、すごく自慢してましたよ!」

金子は驚いた。母が自分の料理について他人に話しているとは思わなかった。しかも「自慢」していたとは…。

「そうだったのか」

山田は考え込むような表情になった。

「じゃあ、一度腕前を見せてもらえないか?明日、開店前に」

「はい!喜んで!」

金子の返事は予想以上に元気だった。自分でも驚くほどの積極性だ。しかし、どこかでこのチャンスを待っていたのかもしれない。料理に関われる可能性が見えたことで、心が躍っていた。

「よし、決まりだな。明日、午後二時に来てくれ。メニューは…親子丼でいいか?基本だけど、技術が見えるメニューだ」

「はい、わかりました!」

その日の営業は、金曜ほど忙しくはなかったが、それでも村上不在の影響は大きかった。佐藤は腕のいい料理人だったが、「おかん」のメニューに不慣れで、提供速度が落ちていた。金子は前回の教訓を活かし、自分のペースを守りながらも、効率的に動くよう心がけた。

緊張を感じ始めた時は、沢村に教わった呼吸法を実践した。「今、ここ」という言葉を心の中で繰り返し、呼吸に意識を向ける。すると不思議と落ち着きを取り戻せた。

閉店後、金子は翌日の親子丼のレシピを頭の中で整理していた。「おかん」の親子丼は村上の代表作。それを再現するのは難しいだろうが、精一杯努力したいと思った。

「金子さん、明日頑張ってくださいね!」

帰り際、ナナが応援してくれた。田中も「期待してるぞ」と、珍しく言葉をかけてくれた。彼らの期待に応えたい、そう思いながら金子は帰途についた。

家に帰ると、両親はまだ起きていた。

「おかえり。遅かったわね」

母が出迎えてくれた。父もテレビを見ながら、小さく「おう」と声をかけた。

「ただいま」

「あのね、誠。私、間違えちゃったみたい」

母の言葉に、金子は首を傾げた。

「何を?」

「あなたのバイト先で、桜井さんっていう女の子に会ったの。その時、つい…あなたが料理好きなこと、話しちゃって」

「ああ、聞いたよ。ナナさんから」

「ごめんなさい。秘密にしてたのよね?」

母は申し訳なさそうな表情をした。金子は微笑んだ。

「いいんだよ。むしろ、良かったかも」

「え?」

「実は明日、お店で料理を作ることになったんだ。親子丼なんだけど」

「まあ!それは素敵じゃない!」

母は嬉しそうに手を叩いた。一方、父はテレビから目を離し、金子を見た。

「料理を?」

「はい。村上さんという料理長が入院中で、代わりに…というわけではないんですが、試しに作ることになりました」

父は何も言わず、再びテレビに視線を戻した。しかし、その表情には少しだけ驚きが混じっていたように見えた。

「何かあったら言ってね。応援してるわ」

母の言葉に、金子は感謝の気持ちを伝えた。自室に戻り、すぐに料理研究ノートを開く。「おかん」で見た村上の親子丼について思い出せることをすべて書き出した。

「出汁の色が琥珀色…鶏肉は皮付きもも肉を使用…玉ねぎは薄切りで、ほんのり色づく程度…」

金子は細部まで思い出そうと努めた。明日は人生で最も重要な料理になるかもしれない。失敗は許されない。

ノートを書き終えた後、沢村の冊子を開き、呼吸法の実践を行った。「今、ここ」に意識を向け、すべての不安を手放す。徐々に心が落ち着き、自信が湧いてくるのを感じた。

「明日、全力を尽くそう」

そう決意して、金子は眠りについた。

3-4:沢村との対話

「これが私の親子丼です」

翌日の午後、金子は緊張した面持ちで、できたての親子丼を山田の前に置いた。厨房では佐藤も興味深そうに見守っている。

「見た目は悪くないな…」

山田は箸を取り、一口食べた。その表情に変化はない。

「うーん…」

もう一口、そしてもう一口。山田は黙々と食べ続けた。金子の心臓は早鐘のように打っていた。

「正直に言うと…」山田が口を開いた。「村上の親子丼とは味が違う」

金子の心が沈んだ。しかし、山田は続けた。

「でも、これはこれでうまい!特に卵の半熟加減がいいね。出汁の甘みも上品だ」

「本当ですか?」

「ああ。技術的には十分だよ。基本がしっかりしている」

その言葉に、金子は安堵の表情を浮かべた。

「佐藤さん、どう思いますか?」

山田は佐藤にも意見を求めた。佐藤は一口食べ、頷いた。

「基本に忠実な仕事だね。プロとして恥ずかしくない」

これは大きな褒め言葉だった。佐藤は料理人として何十年もの経験を持つベテランだ。

「それじゃあ、金子くん。今週の木曜と日曜、佐藤さんが来られない日があるんだけど、厨房に立ってみないか?」

「え?本当ですか?」

「もちろん、いきなり全メニューは無理だろう。親子丼、出汁巻き玉子、焼き鳥、冷奴など、基本的なものから始めよう。メニューは限定になるけど」

金子は感激のあまり、言葉に詰まった。ようやく「はい!ぜひお願いします!」と答えることができた。

「よし、決まりだ。今日はホールだけど、明日から少しずつ厨房の仕事も覚えていこう」

その日の営業は、金子にとって特別な一日だった。ホールの仕事をしながらも、胸の内には喜びが満ちていた。いよいよ厨房に立つチャンス。料理という自分の情熱を形にできる機会が訪れたのだ。

「おめでとうございます、金子さん!」

ナナが笑顔で祝福してくれた。彼女の純粋な応援に、金子も嬉しく思った。

「ありがとう。まだ未熟だけど、頑張るよ」

「私も家で練習したいので、コツを教えてください!」

ナナの言葉に、金子は「もちろん」と答えた。誰かに料理を教えるなんて、考えたこともなかったが、なぜか嬉しく思えた。

閉店後、金子は明日からの準備のために、厨房の配置や調理器具の位置を確認していた。

「頑張ってね」

山田が帰り際に声をかけてきた。

「はい、ありがとうございます。チャンスをくださって」

「いや、こちらこそ助かるよ。それに…」山田は少し照れくさそうに続けた。「金子くんが料理している時の顔、生き生きしてたよ。天職なのかもしれないね」

その言葉が胸に染みた。確かに料理をしている時の自分は、別人のように集中し、情熱を感じる。それが他人の目にも映るほど明らかなものだとは思わなかった。

家に帰る途中、金子は喫茶店「マイルド」に立ち寄った。沢村から「水曜日の夕方、よかったらお茶でもどうですか」と誘われていたのだ。

店内は落ち着いた雰囲気で、クラシック音楽が静かに流れていた。奥のテーブルに沢村の姿を見つけ、金子は近づいた。

「お待たせしました」

「いえ、ちょうど来たところです。座ってください」

沢村はいつもの穏やかな表情で、金子を迎えた。彼は道場での作務衣姿とは違い、シンプルな紺色のシャツを着ていた。しかし、その佇まいは変わらず落ち着いていた。

「コーヒーでよろしいですか?」

「はい、ありがとうございます」

沢村がウェイトレスに注文し、金子に向き直った。

「調子はどうですか?パニック発作は起きていませんか?」

「はい、おかげさまで大丈夫です。教えていただいた呼吸法を毎日実践しています」

「それは良かった」沢村は微笑んだ。「習慣化することが大切です」

コーヒーが運ばれてきた。香ばしい香りが鼻をくすぐる。

「実は、嬉しいことがありまして…」

金子は今日あったことを、興奮を抑えきれない様子で話し始めた。親子丼のテスト、山田と佐藤の評価、そして厨房に立つ許可を得たこと。沢村は静かに、時折頷きながら聞いていた。

「素晴らしいですね。機会が来たのですね」

「はい。ただ…不安もあります」

「どんな不安ですか?」

「私、本当にプロとしてやっていけるのか…四十一歳からのスタートで…」

沢村は静かにコーヒーを一口飲み、言った。

「私が料理の道に入ったのは十五歳でした。厳しい修行の日々…」

彼の目が遠くを見つめる。

「若い頃はただがむしゃらに働きました。技術を磨くこと、評価されることばかりに執着して…」

「それが、パニック発作につながったのですか?」

「はい。四十五歳の時、ある重要な席で失敗をしたんです。その後、何をやっても自信が持てなくなり、不安発作が続きました」

沢村の経験談に、金子は自分の状況を重ね合わせた。

「それを乗り越えるきっかけは?」

「禅寺での瞑想です。そこで気づいたんです。私は『料理人』という役割に自分を閉じ込めていた。評価され、成功することでしか、自分の価値を認められなかった」

沢村は穏やかな表情で続けた。

「しかし、人間の価値は役割や成功では測れません。ただそこに存在していることに、意味があるのです」

「存在していることに…」

「そう。だからこそ『今、ここ』という瞬間を大切にする。過去の失敗に囚われず、未来の不安に支配されず、今この瞬間に全身全霊を注ぐ」

沢村の言葉は、禅問答のようでありながらも、金子の心に深く響いた。

「私も長い間、印刷会社という安定の中で生きてきました。でも、心の奥では何か違うと感じていた」

「そして今、新しい道へのチャンスが訪れた」

「はい。でも、父は反対していて…」

「ご両親の懸念も理解できます。特に安定という面では」

「父は『男が料理なんて』と言うんです」

「その価値観は一世代前のものですね」沢村は微笑んだ。「現代では、多くの一流料理人が男性です。なぜなら、料理は創造と技術の融合だから」

その言葉に、金子は深く頷いた。

「私は金子さんに言いたいのです。チャンスは掴むべきだと。四十一歳、それは遅すぎるどころか、むしろ良い面もあります」

「良い面が?」

「若い頃は技術だけを追い求めがちですが、金子さんの年齢なら、人生経験を料理に反映できる。それに、焦りがなく、本質を見る目があります」

沢村の励ましに、金子は勇気づけられた。

「ただし」沢村は真剣な表情になった。「心と体のバランスは常に意識してください。私の過ちを繰り返さないように」

「はい、約束します」

「そのためにも、瞑想と呼吸法を続けてください。特に厨房という緊張感のある環境では重要です」

二人は料理と瞑想について、さらに話を深めていった。沢村は自身の料理哲学や、瞑想が料理技術にどのように活かされるかを語った。料理は単なる食物の調理ではなく、心を込める行為であること。一つ一つの工程に意識を集中させることの大切さ。

「料理も瞑想も、本質は『気づき』です。食材の声を聴き、火や水の性質を知り、五感全てで感じ取る」

金子はメモを取りながら、熱心に聞き入った。これは料理学校でも教わらないような深い洞察だった。

「金子さん、これから先、厨房で大変なことも多いでしょう。プレッシャーや疲労で呼吸が乱れることもあるでしょう。そんな時は…」

沢村は右手を胸に当て、深く息を吸った。

「まず、自分の呼吸に戻ることです。それだけで、多くの問題は解決します」

「わかりました」

「そして、何か困ったことがあれば、いつでも相談してください。道場でも、ここでも」

金子は深く頭を下げた。

「本当にありがとうございます。沢村さんとの出会いは、私にとって大きな転機です」

「私もうれしいですよ。こうして自分の経験が誰かの役に立つなら」

帰り際、金子は沢村に質問した。

「沢村さんは、料理の道を完全に離れたのですか?」

「いいえ、今でも料理は続けています。ただ、かつてのように競争や評価を気にするのではなく、純粋に食べる人のために」

「素敵ですね」

「金子さんも、これから自分なりの『料理の道』を見つけていくでしょう。焦らず、しかし情熱を持って進んでください」

夜の街を歩きながら、金子は沢村との会話を反芻していた。「今、ここ」という言葉が、これからの指針になりそうだ。過去の失敗や未来の不安ではなく、目の前の一瞬一瞬を大切にする。

「明日から厨房…」

胸の高鳴りを感じながら、金子は明日への期待でいっぱいだった。初めて挑戦する厨房での仕事。新しい一歩の始まりだ。

ふと空を見上げると、満天の星が輝いていた。その光は、これからの金子の新しい人生を照らすかのようだった。