
森本との和解
「森本さん、少しお時間よろしいですか?」
閉店後の片付けを終えた森本に、美咲は声をかけた。「顧客第一のまるやま」プロジェクトが始まって2週間が過ぎていた。森本は「商品開発チーム」のリーダーとして、地元産品の開発と料理レシピの提供を担当していたが、依然として表面上の協力にとどまっていた。
「何だい?」
森本は相変わらずぶっきらぼうだったが、以前ほどの敵意はなくなっていた。
「実は…この商品開発チームの予算について相談があって」
美咲は資料を広げた。当初予定していた予算よりも多めの金額が記載されていた。
「地元産品の仕入れルートを開拓するなら、もう少し予算が必要だと思うんです。特に、有機野菜農家との取引を始めるなら…」
森本は少し驚いた様子を見せた。
「増やせるのかい?資金が厳しいんじゃなかったのか?」
「はい、確かに全体的には厳しいです。でも、TOCの考え方では、制約を最大限に活用するために、そこに投資することが重要なんです。私たちの制約はパラダイム(思考法)にあることが分かったので、それを変えるための投資なんです」
森本は腕を組んだまま、じっと美咲を見つめた。
「本気で変えるつもりなんだな」
「はい。でも森本さんの協力なしには無理です」
彼は小さくため息をついた。
「実は、この間言いそびれたことがあるんだ…」
森本はポケットから折りたたまれた紙を取り出した。それは大学の願書だった。
「孫の美香が大学受験をするんだ。父親は早くに亡くして、娘一人で育ててきた。だから、俺が学費を出すつもりでいた」
「そうだったんですか…」
「でも、この店の状況じゃあ…先行きが見えなくてね。それで神経質になってたんだ。すまなかった」
美咲は初めて森本の弱い部分、家族を思う優しさを垣間見た気がした。
「どこの大学を希望されてるんですか?」
「東京の私立だ。経営学を学びたいと言ってる。頭はいいんだ、あの子は」
美咲はふと思いついた。
「もし良ければ、私の知り合いを紹介しましょうか?経営学科の教授で、奨学金の相談に乗ってくれるかもしれません」
森本の目が驚きに見開かれた。
「本当かい?」
「はい。それに…」美咲は少し躊躇ったが、続けた。「もし美香さんが夏休みなど東京に来ることがあれば、私の会社でインターンシップの機会も作れるかもしれません」
森本の目が潤んだように見えた。彼は素早く顔を背けたが、声は明らかに震えていた。
「そこまでしてもらえるとは…なぜだい?」
「なぜって…私たちは同じ船に乗っているんです。まるやまスーパーを再生させるという」
森本はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「わかった。予算の件も、商品開発の件も、全面的に協力するよ。それに…これまでの態度、謝るよ」
彼は深く頭を下げた。美咲も同じように頭を下げた。
「こちらこそ、一方的な進め方をしてすみませんでした」
その日から、森本の態度は明らかに変わった。彼は自分の知識と経験を惜しみなく共有し始め、美咲の提案にも建設的な意見を述べるようになった。
翌日、森本は美咲にある情報をもたらした。
「近くの松山地区に、新しく有機農業を始めた若い農家がいるんだ。変わった野菜を作ってて、どこにも卸せずに困ってるらしい。興味があるなら、今度一緒に見に行かないか?」
「はい、ぜひ!」
美咲は即座に答えた。これが、田中陽介との運命的な出会いとなることをまだ知らないまま。
「朝採れ朝市」の誕生
松山地区は、町の中心部から車で20分ほどの山あいにある農村地帯だった。5月初旬、若葉が美しい季節に、美咲と森本は田中陽介の農園を訪れた。
「こちらが『たなか有機農園』です」
森本の運転する軽トラックが到着すると、30代半ばと思われる男性が作業着姿で迎えてくれた。濃い日焼けと、しっかりした体つきが、農作業の日々を物語っていた。
「田中です。わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
彼の第一印象は、想像していたよりも洗練されていた。話し方も丁寧で、農業というよりもビジネスマンのような雰囲気があった。
「以前は東京のIT企業に勤めていたんですが、3年前に脱サラして実家の農業を継ぎました」
案内されながら歩く中、美咲は田中の農園の特徴を理解していった。彼は一般的な作物だけでなく、珍しい野菜やハーブも栽培していた。カラフルな人参、紫色のじゃがいも、様々な種類のミニトマトなど、見た目にも美しい野菜が並んでいた。
「これらはどこかに卸しているんですか?」美咲が尋ねると、田中は苦笑いを浮かべた。
「それが問題なんです。大型スーパーには規格外として受け取ってもらえないし、量も少ないので安定供給ができない。かといって、直売所では希少価値が理解されない…」
美咲は田中の悩みを聞きながら、ふとあることに気づいた。彼の抱える制約と、まるやまスーパーの制約が、互いに補完し合える可能性があったのだ。
「田中さん、私たちは『価格』ではなく『価値』で勝負したいと考えています。あなたの野菜は、まさにその『価値』を体現していると思うんです」
美咲は、まるやまスーパーでの「顧客第一」プロジェクトと、現在の課題について説明した。特に、大型店との差別化要素を求めていることを強調した。
「もし可能なら、まるやまスーパーで『朝採れ朝市』というコーナーを設けませんか?毎朝収穫した野菜を、その日のうちに販売するんです」
田中の目が輝いた。
「それは…可能です!ただ、毎日の量はそれほど多くはありませんが…」
「それでいいんです」美咲は熱心に続けた。「『数量限定』であることが、むしろ価値になります。『今日しか手に入らない』という希少性が魅力になるんです」
森本も頷いた。
「確かに、大型店にはできないサービスだな。彼らは物流センターから配送されるまで時間がかかるからね」
話し合いは具体的な条件に移った。田中は当初、市場価格よりも高い卸値を提示したが、美咲は別の提案をした。
「通常の卸方式ではなく、共同事業として考えませんか?販売価格の30%があなたの取り分、残りがまるやまの取り分というように」
「共同事業…ですか?」
「はい。これなら、売れ行きに応じてお互いがリスクとリターンを分かち合えます。売れれば両者の利益になり、売れなければ両者の負担になる。公平だと思いませんか?」
田中は考え込んだが、すぐに納得した様子で頷いた。
「面白い提案ですね。TOCの『ウィン・ウィン』の発想ですか?」
美咲は驚いて田中を見た。
「TOCをご存知なんですか?」
田中は微笑んだ。
「私が会社員だった頃、プロジェクト管理でTOCのクリティカルチェーン法を使っていました。『制約を最大限に活用する』という考え方は、農業にも応用できると思っています」
美咲は急に親近感を覚えた。共通言語を持つパートナーの存在は、とても心強かった。
2週間後、「朝採れ朝市」は正式にスタートした。店の入口近くに特設コーナーを設け、その日に収穫された野菜を午前10時から販売。量は少ないが、鮮度抜群で見た目も美しい野菜は、すぐに評判となった。
「わぁ、こんなカラフルな人参、初めて見たわ!」 「今日採れたものなの?みずみずしいわね!」
初日は2時間で完売。翌日からは開店前から行列ができるほどの人気となった。「朝採れ朝市」を目当てに来店した客は、他の商品も購入していくため、全体の売上も増加傾向を示した。
田中との打ち合わせの頻度も増え、彼のアイデアでミニトマトの詰め合わせや、季節の野菜セットなど、新商品も誕生した。彼との会話は、ビジネスの枠を超えて、互いの考え方や価値観に及ぶことも多くなっていった。
田中との出会い
「朝採れ朝市」が始まって1ヶ月が経ったある土曜日、美咲は田中の農園を再訪した。今回は森本ではなく、健太が運転する車に乗って。
「陽介さん、先週の『彩りサラダセット』が大好評でした!」
いつの間にか、二人は互いにファーストネームで呼び合うようになっていた。田中陽介(35歳)は、美咲にとって単なるビジネスパートナー以上の存在になりつつあった。
「そうか、良かった!実は新しいアイデアがあるんだ」
陽介は美咲と健太を案内しながら説明した。彼は、規格外の野菜を使った「畑の宝石箱」というコンセプトを考えていた。普通なら市場に出回らない形や大きさの野菜を、むしろ個性として売り出す企画だ。
「規格外と言っても、味は同じかむしろ良いことも多いんだ。これを廃棄するのはもったいない」
美咲は陽介のアイデアに深く共感した。彼女自身、「制約を武器に変える」という発想で、まるやまスーパーの再生に取り組んでいたからだ。
「素晴らしいアイデアです!実は私も、制約を価値に変える思考法が好きで…」
健太は二人の会話を聞きながら、ふと気づいたことがあった。美咲が陽介と話すときの表情が、いつもより生き生きとしていることに。彼は少し寂しそうな目で二人を見つめたが、すぐに気持ちを切り替えた。
「田中さん、その『宝石箱』、ネーミングも良いですね。POPや陳列も工夫すれば、目玉商品になりそうです」
三人は具体的な実施計画を話し合い、翌週からの導入を決めた。
帰り際、陽介が美咲に声をかけた。
「もし良かったら、今度の日曜日…農業体験イベントをやるんだけど、手伝ってくれないかな?地元の子供たちに野菜の収穫を体験してもらうんだ」
「喜んで!それって『顧客第一』の理念にもぴったりですね」
健太は車の中で、二人の約束を聞きながら、複雑な表情を浮かべていた。
日曜日、美咲は陽介の農園で開かれた農業体験イベントを手伝った。二十人ほどの子供たちが参加し、陽介の指導のもと、ミニトマトやじゃがいもの収穫を体験した。
美咲は子供たちに野菜の名前や特徴を教えながら、陽介の子供への接し方に感心していた。彼は忍耐強く、時に厳しく、でも常に温かく子供たちと接していた。
「陽介さんは子供たちと接するの、上手いですね」
イベント後の片付けをしながら、美咲は感想を述べた。
「実は将来、農業体験施設を作りたいと思ってるんだ。子供たちに食の大切さを伝える場所を」
陽介はそう言いながら、少し照れたような表情を見せた。
「すごい。私も同じようなことを考えていました。まるやまスーパーを単なる小売店ではなく、地域の『食の学び場』にできないかって」
二人は思わず顔を見合わせ、笑った。
「美咲さんとは話が合うね。価値観が似てるのかな」
「そうかもしれません。私も陽介さんと話していると、自然と新しいアイデアが浮かんできます」
日が暮れる頃、陽介は美咲を最寄りのバス停まで送ることになった。車の中で、陽介が静かに言った。
「実は…美咲さんに会ってから、僕の考え方が変わったんだ」
「どういうことですか?」
「僕は『農業は厳しい』『大型スーパーに太刀打ちできない』と思い込んでいた。でも美咲さんの『制約を武器に変える』という発想で、可能性を見出せた。『朝採れ朝市』も『畑の宝石箱』も、小規模だからこそできることなんだ」
美咲は心が温かくなるのを感じた。
「私も同じです。陽介さんとの出会いで、まるやまスーパーの可能性を再確認できました。『小規模』という制約が、かえって差別化の源泉になる…」
バス停に着く頃には、二人の間には言葉にしがたい絆が生まれていた。それは単なるビジネスパートナーを超えた、心の繋がりだった。
「また…会えますか?」陽介が恥ずかしそうに尋ねた。
美咲は微笑んだ。
「もちろん。これからも一緒に、『制約を武器に』していきましょう」
父との対話
父の脳梗塞から2ヶ月が経ち、城山正彦はリハビリを続けながら、少しずつ回復していた。右半身の麻痺は残るものの、杖をつけば短時間なら歩けるようになっていた。
ある日の午後、美咲は父を病院から自宅に連れ出し、車で「まるやまの見晴らし台」まで行くことにした。
「久しぶりだなぁ、ここは」
父は助手席から景色を眺めながら、懐かしそうに言った。かつて頻繁に訪れた場所だが、ここ数年はほとんど来ていなかった。
見晴らし台に着くと、美咲は父を手伝って車から降り、ベンチまで歩いた。初夏の風が心地よく、町の景色が一望できた。
「お父さん、一つ報告があります」
美咲は真剣な表情で父を見た。
「まるやまスーパー、少しずつですが、良くなってきています」
彼女は具体的な数字を伝えた。「朝採れ朝市」の効果もあり、先月の売上は前年比108%。客数も増加傾向にある。まだ累積赤字の解消には遠いが、月次の収支は改善しつつあった。
父は静かに頷いた。
「よくやったな、美咲。正直、ここまでできるとは思わなかった」
「まだまだです。でも、私には見えてきたんです。まるやまスーパーの可能性が」
美咲は熱を込めて話し続けた。「顧客第一」プロジェクトの進捗、森本との和解、田中との「朝採れ朝市」の成功。そして何より、「制約を武器に変える」という発想が、少しずつ実を結び始めていることを。
「制約理論か…」父は懐かしそうに言った。「お前が大学時代に夢中になっていたアレだな。まさか我が家のスーパーに応用されるとはな」
「でも、まだ課題はたくさんあります。八千万円の負債は重いし、施設も老朽化している。銀行の融資も厳しい状況です」
父は窓外の町を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。
「美咲、お前は東京に戻ることになっていたよな。休職期間はあとどれくらいだ?」
「あと4ヶ月です」
「十分な時間ではないな…」
美咲は深呼吸した後、決意を口にした。
「お父さん、私、まるやまスーパーの再建に、もう少し時間をかけたいと思っています」
父は驚いたように美咲を見た。
「東京は?お前のキャリアは?」
「それは…まだ決めきれていません。でも、ここで始めたことを、中途半端なまま終わらせたくないんです。TOCの考え方で言えば、今の私の制約は『時間』かもしれません」
美咲は続けた。
「だから、休職期間を延長できないか、会社に相談してみようと思います。もし無理なら…退職も選択肢に入れています」
父の表情が曇った。
「それは…お前のためにはならんだろう。この店のために、お前の将来を犠牲にしてほしくない」
美咲は微笑んだ。
「犠牲ではありません。私自身が、この挑戦から多くのことを学んでいるんです。それに…」
彼女は一瞬言葉に詰まった後、続けた。
「ここには私にとって大切なものがあります。人との繋がり、地域との関わり…そして、お父さんとお母さんが大切にしてきたもの」
父の目に涙が浮かんだ。美咲の手を握り、静かに言った。
「わかった。お前がそう決めたなら、応援する。でも約束してくれ。最終的には、お前自身の幸せを選ぶと」
「はい、約束します」
美咲は父の肩に頭を乗せた。久しぶりに感じる父の温もりに、心が安らいだ。
「制約を武器に変える…お前ならできるかもしれんな」
父のその言葉に、美咲は強く頷いた。まるやまスーパーの再生と、自分自身の成長。その二つの旅路はまだ始まったばかりだった。
夕暮れの空に、雲が赤く染まり始めていた。