TOCが教える地方スーパー再生の全戦略 第1章 – 「帰郷」

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父の病室

「お父さん、この数字…本当なの?」

東京駅で新幹線を降りてから一週間。美咲は病院のベッドに横たわる父に、財務資料を見せながら尋ねた。資料には赤字決算が三年連続で続いていること、そして八千万円の負債があることが記されていた。

城山正彦(65歳)は、まるやまスーパーの創業者であり、美咲の父親だ。右半身に麻痺が残るものの、会話には支障がなかった。彼は苦笑いを浮かべた。

「ああ、見つかったか。隠すつもりはなかったんだが…心配させたくなくてな」

「これ、どうするつもりだったの?このままじゃ…」

美咲の言葉を遮るように、父は窓の外を見つめた。

「わかっとる。もう限界だ。ここ数年で町の人口は三割減った。大型店には価格で勝てない。閉店の覚悟はできている」

その言葉に、美咲は言い知れぬ痛みを感じた。子供の頃から見てきた父の背中。まるやまスーパーに込められた想い。それが、こんな形で終わるなんて。

「お父さん、まだ諦めるのは早いんじゃないかな。少なくとも、私に考える時間をくれない?」

父は少し驚いたように美咲を見つめ、静かに頷いた。

「お前なら何かできるかもしれんな。だが無理はするな。お前には東京でのキャリアがある」

美咲は薄く笑った。この数日間、何度も考えた。東京に戻るべきか、それとも一時的にでも家業を継ぐべきか。見晴らし台での決意を、やはり父には伝えるべきだと思った。

「六ヶ月、休職することにしたよ。その間に何かできないか、考えてみる」

父の目が少し潤んだように見えた。

「そうか…すまんな」

「お父さんが元気になること、それが一番大事。あとのことは、私が何とかする」

美咲は言い切ったが、実際には何の具体策も持っていなかった。ただ、東京での七年間で培ったマーケティングスキルと、大学で学んだTOCの知識が役に立つかもしれないという直感だけだった。

「まずは現状を知ることから始めるよ。明日から店に立つから」

初めての対立

翌朝、美咲が「まるやまスーパー」に到着したのは午前七時だった。開店準備の様子を見るためだ。

創業以来三十五年、一度も大規模な改装をしていない店内は、どこか懐かしさを感じさせながらも、明らかに古びていた。棚や什器はところどころ傷み、照明も暗い。約300坪の売場には、八つの通路と五つのレジがあるが、常時稼働しているのは二つだけだった。

従業員は全員で十七名。そのうち正社員は美咲の両親を含めて五名。残りはパートとアルバイトだ。平均年齢は60歳を超えており、最年少でも42歳の健太だった。

「みなさん、おはようございます」

美咲が挨拶すると、従業員たちは怪訝な表情を浮かべたが、一応の挨拶を返した。彼らにとって、子供の頃から知っている「城山さんの娘」が、突然アドバイザーのような立場で現れたことに、戸惑いがあるのだろう。

午前八時の開店時、美咲は入口近くに立ち、来店客を観察していた。開店直後の客層は、ほとんどが高齢者だった。じっくりと商品を見比べ、時には従業員に声をかけながら買い物をしている。

「森本さん、ちょっといいですか?」

美咲は仕入れ担当の森本清(60歳)に声をかけた。丸眼鏡をかけた森本は、不機嫌そうに振り返った。

「何だい?忙しいんだよ」

「この野菜コーナー、もう少し陳列を工夫できませんか?例えば、季節感を出すとか…」

森本は眉をひそめた。

「三十年以上こうやってきたんだ。売れてるものを前に出す。それだけさ」

「でも、最近の顧客動向を見ると…」

「東京の理屈はいい。ここは地方だ。客は値段と鮮度しか見ない」

そう言い捨てて、森本は立ち去った。美咲は言葉を飲み込んだ。

副店長の田村健太(33歳)が近づいてきた。美咲の幼馴染で、高校卒業後すぐにまるやまスーパーに就職した真面目な青年だ。

「美咲さん、気にしないで。森本さんは頑固だけど、実は一番この店のことを考えてるんだ」

「ありがとう、健太くん。でも、このままではまずいことは確かなの」

美咲は財務状況を説明した。健太の表情が曇った。

「そんなに…ひどかったのか」

「うん。だからこそ、変える必要があるの」

「でも、どうやって?」

美咲は言葉に詰まった。確かに「どうやって」なのだ。

現実の壁

午後、美咲はバックヤードのオフィススペースで帳簿とデータを見直していた。数字は冷酷だった。

月商約三百万円。客単価は平均約千二百円。一日の来店客数は約八十人。粗利率は全体で22%だが、特売品は15%を切るものもある。

「こんなに厳しいとは…」

ため息をつく美咲の背後から、母の静子(62歳)が声をかけた。

「美咲、お疲れさま。お茶を持ってきたよ」

「ありがとう、お母さん。これ、全部見たの?」

「ええ、なんとなくね。私は数字には弱いから詳しくはわからないけど…」

静子は長年レジを担当し、常連客との関係を築いてきた。表立った経営には関わらないが、店の様子は誰よりも把握している。

「正直なところ、もう無理なのかもしれないわね。大型店ができてから、年々お客さんが減って…特に若い人はほとんど来なくなった」

美咲は母の言葉に頷きながらも、心の中ではまだ諦めきれなかった。

「でも、大型店にはない価値を提供できれば…」

「それが難しいのよ。値段でも品揃えでも勝てない。私たちにあるのは、お客さんとの関係だけ…」

その言葉に、美咲は何かを感じた。「関係」か…それは確かに大型店にはない価値かもしれない。

このとき、バックヤードのドアが勢いよく開いた。

「美咲さん!大変です!」健太が息を切らして駆け込んできた。

「何があったの?」

「MMスーパーが、明日から三日間の大特売をするって。チラシが新聞に入ってました」

MMスーパーは、町の反対側に五年前に進出した大型チェーン店だ。品揃えも豊富で、価格も安い。まるやまスーパーの最大の競合相手だった。

美咲はチラシを受け取り、目を通した。主要品目がかなり安い。まるやまではとても太刀打ちできない価格だった。

「これに対抗するには…」

健太は心配そうに尋ねた。

「特売をしますか?でも、仕入れ値を下回る価格になってしまう商品もありますよ」

美咲は考え込んだ。広告代理店時代なら、「特売で対抗」という戦略を提案したかもしれない。しかし今、数字の現実を前にして、その選択肢が最適でないことは明らかだった。

「いや、別の方法を考えよう。彼らの土俵では戦えない」

そのとき、森本が事務所に入ってきた。彼はMMスーパーのチラシを見ると、苦々しい表情を浮かべた。

「こんなもん、見なくてもわかるさ。毎回同じだ。俺たちが負けるのは目に見えてる」

「森本さん、諦めないでください。別の方法が…」

「別の方法?何だい、それは?」

美咲は答えに窮した。確かに、具体的な対策はまだ持っていなかった。

「まだ…考え中です」

「考え中?」森本は嘲笑うように言った。「東京の広告会社で偉そうにしてた割には、実践となると何もできないじゃないか」

その言葉が美咲の心に突き刺さった。

森本との確執

同じ屋根の下で働くことになった森本との関係は、日に日に悪化していった。

美咲は商品構成の見直しや、店舗レイアウトの変更、SNSを使った情報発信など、いくつかの提案をしたが、森本はことごとく反対した。

「若い人向けの商品?そんなの置いても売れないよ。この町の若者は買い物すらしない」

「オーガニック野菜のコーナー?誰が高いもの買うんだい?」

「SNS?年寄りが多い町でそんなもの見る人いるのかい?」

美咲は何度も食い下がったが、議論は平行線をたどるばかりだった。

ある日の閉店後、美咲は健太と二人で売上データを分析していた。最近の傾向として、高齢者の来店頻度は維持されているものの、購入点数が減少していることがわかった。

「やっぱり、年金生活の方が多いから、節約志向が強くなってるんだろうね」健太は言った。

「でも、必要なものは買わなきゃいけないはず。となると…」

「他で買ってるってこと?」

美咲は頷いた。「MMスーパーか、あるいは…」

「通販かもしれないね。最近は高齢者もネットスーパーを使ってるって聞くし」

その会話を、たまたま通りかかった森本が聞いていた。彼は怒りを露わにして近づいてきた。

「何を言ってるんだ!うちの常連さんが通販なんか使うわけないだろう!」

「いや、データを見るとそう考えられるんです」美咲は冷静に応じた。

「データ?数字ばかり見やがって。お前は人の気持ちがわからないんだ!」

「森本さん、感情的になるのはやめてください。建設的な議論をしましょう」

「建設的?お前が来てから、みんなの士気は下がる一方だ。古くからの常連さんは混乱してる。これのどこが建設的なんだ?」

その言い合いは、ついに森本が封筒を取り出して美咲の前に投げつけるまでエスカレートした。

「はい、辞表だ。こんな状況じゃ働けない」

「森本さん!」健太が止めようとしたが、森本は聞く耳を持たなかった。

「三十年間、この店のために働いてきた。お前みたいな素人に好き勝手させるくらいなら、辞める!」

森本は怒鳴り声を残して店を出て行った。美咲は封筒を手に取り、開かないまま机に置いた。

「森本さん、本当に辞めちゃうの…?」健太が心配そうに尋ねた。

「…わからない。でも、明日また来てくれると思う」

美咲は言ったが、自信はなかった。この一週間で、まるやまスーパーの現実がいかに厳しいか、痛感していた。資金不足、人材の高齢化、大型店との競争…そして何より、変化を拒む組織文化。

見晴らし台での決意は揺らいでいた。自分に本当にできるのだろうか。

夜、一人自宅に帰った美咲は、部屋の壁を見つめていた。明日からどうするか。何から手をつければいいのか。頭の中は混乱していた。

ふと、高橋教授の言葉を思い出した。

「制約は問題ではなく、システムを管理するためのレバレッジポイントだ」

「そうだ…今は混乱している場合じゃない」

美咲は立ち上がり、壁に向かって大きな紙を貼った。そして、付箋を手に取った。

「現状把握から始めよう。TOCの第一歩、現状枝木図の作成だ」