
二拠点生活の始まり
10月上旬、美咲の新しい生活が始まった。東京と地方を行き来する「二拠点生活」である。
彼女の基本的なリズムは、一週間のうち月曜から木曜を東京で、金曜から日曜を地方で過ごすというものだった。東京では、契約社員として広告代理店の「地方創生チーム」に所属し、地方と都市をつなぐプロジェクトに携わる。地方では、まるやまスーパーの運営と「まるっと」設立準備を進める。
「自分で選んだ道だもの、頑張らなきゃ」
美咲は東京行きの新幹線で、週間スケジュールを見直していた。みっちりと予定が詰まっている。東京では朝9時から夕方6時まで広告代理店で働き、夜は「まるっと」関連の資料作りや打ち合わせ。地方に戻れば、まるやまスーパーの運営確認、スタッフミーティング、陽介との打ち合わせ、新事業の準備…
最初の数週間は、その新鮮さも手伝って、美咲は高いエネルギーを維持していた。日々の変化や新しい出会い、二つの世界を行き来する刺激が、彼女を前向きにさせていた。
東京では、かつての同僚たちとは違う立場での再会に、最初は戸惑いもあった。
「美咲、久しぶり!田舎暮らしは楽しい?」
「地方再生、カッコいいじゃん。でも大変でしょ?」
しかし、地方創生チームでの仕事は充実していた。彼女の実体験は、クライアントの地方進出プロジェクトにとって貴重な情報源となったのだ。
「城山さんのような実践者の視点が、私たちには必要だったんです」
チームリーダーの高田(40歳)はそう言って、美咲の意見を積極的に取り入れた。
一方、地方では、「まるっと」設立に向けた準備が徐々に進んでいた。陽介との関係も深まり、仕事を超えたプライベートな時間も増えていった。
「美咲、この週末、少し休んだらどう?山の紅葉がきれいだから、見に行かない?」
陽介のそんな誘いに、美咲は心惹かれながらも、予定を確認して迷う毎日だった。
「行きたいけど…この資料を仕上げないと…」
陽介は美咲の多忙さを理解しながらも、時々心配そうな表情を見せることがあった。
「無理しすぎていないかな。顔色が優れないように見えるけど…」
「大丈夫、慣れるまでの一時的なことよ」
美咲はそう答えながらも、徐々に疲労が蓄積していくのを感じていた。新幹線での移動時間も、常にパソコンに向かい、メールやプレゼン資料の作成に追われていた。
「時間が足りない…」
それは彼女の日課となったつぶやきだった。
現場から離れる不安
東京滞在中、美咲は常にまるやまスーパーのことが気になっていた。
「健太くん、今日の売上はどう?」
彼女は毎晩、電話やLINEで健太に状況確認していた。
「問題ないよ。ただ、森本さんが言うには、お客さんが『美咲さんはいつ戻ってくるの?』って聞くことが増えてるみたい」
その言葉に、美咲は複雑な思いを抱いた。嬉しい反面、自分がいないことで店に影響が出ないかという不安もあった。
10月下旬、「まるっとマルシェ」第2回目の準備が佳境を迎えていた。美咲は東京にいながら、毎日のようにスタッフと打ち合わせを重ねていた。
「チラシの最終確認ができていません」 「出店者リストに変更があります」 「当日の人員配置を決めなくては」
テレビ電話越しに矢継ぎ早に報告する健太に、美咲も必死で対応した。
「チラシはOK。出店者リストの変更は私が対応するから、PDFを送って。人員配置は…」
美咲は電話を切った後、深いため息をついた。現場にいないことのもどかしさが日に日に強くなっていた。
地方に戻った週末、彼女はスタッフの微妙な表情の変化に気づいた。特に森本は少し遠慮がちに見えた。
「森本さん、何かあったんですか?」
森本は少し躊躇ってから答えた。
「いや…ただ、美咲さんが忙しそうだから、些細なことで相談するのを遠慮してるだけさ」
その言葉が美咲の心に刺さった。彼女がいない間、スタッフは判断を先送りにしたり、自分たちだけで解決しようとしたりしていたのだ。それは一見良いことのようでも、チームとしての一体感や意思決定の速度を低下させる可能性があった。
「私の不在が、新たな制約になっている…」
美咲はその夜、自宅でノートに向かった。「まるやま」と「まるっと」の運営体制、意思決定プロセス、情報共有の仕組みなど、現場にいなくても機能するシステムを考え直す必要があった。
「私がいなくても回る仕組み…」
彼女はTOCの考え方を思い出した。「他のすべてを制約に従属させる」という原則。彼女の「時間と場所の制約」を中心に、システム全体を再設計する必要があったのだ。
翌日のスタッフミーティングで、美咲は新たな運営体制を提案した。
「私の不在時の判断を明確にするため、『即決可能事項』『要相談事項』『要決裁事項』の三つに分類しましょう」
具体的な基準を設定し、健太、森本、山田ら主要メンバーに権限を委譲。また、毎日夕方にオンラインでの「5分ミーティング」を行い、重要事項の共有と相談を行う仕組みを作った。
「それと、私からのお願いです」
美咲は全員に向かって、真摯な表情で言った。
「私は皆さんを信頼しています。だから、私がいない間も、自信を持って判断してください。もし間違えても、それは私たちの学びになるだけです」
スタッフたちは少し驚いたようだったが、徐々に頷き始めた。
「わかった」森本が率先して答えた。「俺たちも店を守るためにやれることをやるさ」
この日を境に、スタッフたちの主体性が少しずつ高まっていった。しかし、美咲自身の負担が軽減されたわけではなかった。むしろ、システムの再設計と移行期の混乱で、彼女の負担はさらに増えていたのだ。
過労と危機
11月中旬、美咲の体調に明らかな変化が現れ始めた。
朝起きるのが辛く、常に倦怠感があり、集中力も低下していた。新幹線の中でうたた寝することが増え、時にはミーティング中に頭痛に襲われることもあった。
「美咲、本当に大丈夫?」
陽介が心配そうに尋ねた。美咲は弱みを見せまいと微笑んだ。
「大丈夫よ、ちょっと疲れてるだけ」
しかし、彼女の体は悲鳴を上げていた。過密スケジュール、移動による疲労、常に二つの世界で最高のパフォーマンスを発揮しなければならないというプレッシャー。それらが積み重なり、彼女の健康を蝕んでいたのだ。
ある水曜日の朝、東京のアパートで美咲は目覚めたとき、激しい眩暈に襲われた。
「何…これ…」
立ち上がろうとしても、部屋が回るような感覚で、体のバランスが取れなかった。何とか携帯電話に手を伸ばし、高田チームリーダーに連絡した。
「申し訳ありません…今日は休ませてください…」
かろうじて電話を切った後、美咲は再び倒れ込んだ。そして、隣に置いてあったスマートフォンが鳴った。地方からの電話だった。
「美咲さん、緊急の件で…」健太の声が聞こえる。
「ごめん…今日は…」
美咲は言葉を絞り出すのがやっとだった。健太は美咲の様子にすぐ気づいた。
「どうしたんですか?具合が悪いんですか?」
「ちょっと…めまいが…」
「病院に行かないと!」健太の声は明らかに動揺していた。「すぐに誰かに連絡を…東京に知り合いは?」
美咲は混乱した頭で考えた。ここ数ヶ月、彼女は仕事に没頭するあまり、東京での人間関係はほとんど広告代理店の同僚だけになっていた。そして多くの友人とは疎遠になっていた。
「江口さんの番号が…携帯に…」
健太は素早く行動した。いったん電話を切り、すぐに江口に連絡を取った。その後、再び美咲に電話をかけてきた。
「江口さんが今から向かうそうです。救急車を呼んだ方がいいかもと言ってました」
「そんな…大げさな…」
美咲は状況を過小評価しようとしたが、実際には立ち上がることすらできないほど衰弱していた。
江口が到着するまでの約30分間、健太は電話で美咲と話し続けた。業務の話ではなく、単なる世間話や昔の思い出話で彼女の意識を保たせようとした。
「覚えてる?小学校の時、学芸会で一緒に出た劇のこと」
美咲は弱々しく笑った。
「ええ…あなたが王子様で…私がお姫様…」
「そうそう!台詞を間違えて、みんなに笑われたんだよね、僕」
そんな会話の中で、美咲はふと気づいた。健太が彼女のことをどれだけ大切に思ってくれているか。そして、彼女自身がどれほど多くの人に支えられているかを。
江口の到着後、美咲は救急車で病院に運ばれた。診断は「過労による自律神経失調症」。医師は厳しい口調で言った。
「少なくとも一週間は絶対安静です。このままでは本当に倒れますよ」
病院のベッドで、美咲は天井を見つめていた。
「私は…何をしているんだろう」
「弱さを見せる勇気」
美咲が病院で過ごした3日間は、彼女にとって貴重な内省の時間となった。
地方からは陽介が駆けつけ、東京では江口が毎日見舞いに来てくれた。「まるやま」のスタッフたちも、交代で電話をかけてきた。
「美咲さん、無理しないでください」 「店のことは心配しないで」 「早く元気になってね」
そんな温かい言葉の数々が、美咲の心に沁みた。
「私…一人でやろうとしすぎてた」
陽介が病室で静かに頷いた。
「美咲は強い人だから。だからこそ、弱さを認めるのが苦手なんだと思う」
「完璧にやらなきゃって…いつも思ってた」
美咲は小さな声で言った。広告代理店時代から、彼女はいつも「完璧」を求め、弱みを見せることを恐れていた。それは「自分の価値=仕事の成果」という強固な信念があったからだ。
「でもね、人は弱さを見せた時こそ、本当につながれるんだと思う」
陽介の言葉に、美咲は涙ぐんだ。
「助けを求めることは…恥ずかしいことじゃない」
彼女はようやくそれを理解し始めていた。
退院の日、美咲は重要な決断をした。
「実家に戻って、しばらく静養します」
東京での仕事は2週間休むことにし、江口の理解も得られた。広告代理店としても、彼女の健康を最優先したいと言ってくれたのだ。
地方に戻った美咲を、スタッフたちは温かく迎えた。しかし、彼女は以前とは違う姿勢で臨んだ。
「みなさん、私からのお願いがあります」
静養2日目、美咲は短時間だけ店に顔を出し、スタッフに向かって言った。
「私は…完璧じゃありません。一人ですべてをやろうとして、倒れてしまいました。これからは、もっと皆さんの力を借りたい。そして、私にできないことは、正直に『できない』と言えるようになりたいんです」
森本が静かに言った。
「そりゃあ、一人じゃ無理だよ。俺だって、長年一人で抱え込んで苦しかった。でも美咲さんが来てからは、チームで分かち合えるようになった」
山田も優しく微笑んだ。
「私たちは家族みたいなものよ。助け合って当然だわ」
健太も頷いた。
「美咲さんがいなくても回る仕組みづくり、それこそが本当のリーダーシップだと思います」
彼らの言葉に、美咲は深く頭を下げた。
「ありがとう…本当に」
チームの再定義
静養期間を通して、美咲は「まるやま」と「まるっと」の運営体制を根本から見直した。
彼女がしていた仕事を書き出し、「自分しかできないこと」と「他の人に委託できること」に分類。さらに「緊急性の高いもの」と「計画的に進められるもの」で整理した。
そして、より多くの仕事をスタッフや陽介に委ねる決断をした。
「健太くん、店舗運営の実務責任者として、もっと権限を持ってほしいの」
「森本さん、仕入れと『食のマイスター』活動に集中してください」
「山田さん、御用聞きチームのリーダーをお願いします」
そして陽介には、「まるっと農園」構想の具体化を任せた。
「私は全体の方向性と、東京との橋渡し役に集中します」
美咲のこの決断は、チーム全体の活性化をもたらした。それぞれが責任と権限を持つことで、主体性が高まり、意思決定も迅速になった。
同時に、日々の情報共有の仕組みも整えた。毎朝の「朝礼」、毎夕の「5分オンラインミーティング」、週一回の「運営会議」という三層構造だ。
「これなら私が東京にいても、地方にいても、情報が滞らない」
さらに、彼女自身の働き方も変えた。
「週に3日東京、4日地方」から「週に2日東京、5日地方」へとシフト。重要な対面ミーティングのある日だけ東京に行き、それ以外はリモートワークで対応することにした。広告代理店も、この提案を受け入れてくれた。
「アウトプットで評価するから、場所はこだわらないよ」江口はそう言ってくれた。
二拠点生活を続けながらも、移動時間を「考える時間」「本を読む時間」と捉え直し、常にパソコンに向かう緊張状態から解放された。
「制約の中で、どう最適化するか…」
美咲は陽介と実家の庭先で夕日を眺めながら、そうつぶやいた。
「それがTOCの本質だね」陽介は優しく微笑んだ。「美咲自身が、最大の制約だった」
「そうね…自分の時間、体力、注意力…それらは有限なのに、無限かのように扱っていた」
美咲は静かに陽介の手を握った。
「ありがとう。あなたがいなかったら、私はまだ気づけなかったかもしれない」
「いや、最終的に気づくのは美咲自身だよ。僕はただ…そばにいられて嬉しかっただけさ」
二人は言葉を交わさず、しばらく夕日を眺めていた。美咲は深く息を吸った。穏やかな時間が流れる中、彼女は久しぶりに心の平安を感じていた。
「弱さを認めることが、新たな強さになる…」
美咲はその言葉を心に刻んだ。