
「まるっと農園」の季節変動問題
「これは予想以上の問題かもしれないね…」
翌年2月上旬、陽介は農園の温室内で、タブレットに表示された収支計画を見ながら眉をひそめていた。隣には美咲が立ち、同じ画面を見つめている。
「まるっと農園」は昨年末に正式に設立され、陽介の既存の農地に隣接する形で、体験型農業施設の建設が始まっていた。基本プランは、有機農業の実践と体験、食育プログラムの提供、そして地域の交流拠点という三つの柱で構成されていた。
しかし、開業前から様々な現実的な課題が浮上してきていた。今直面していたのは「季節変動」という問題だった。
「私たちの収支計画は年間を通じて平均的な来場者数を想定していたけど、実際には季節によって大きく変動するんだね」美咲が言った。
陽介はデータを指さした。
「そう、夏休みやゴールデンウィークは想定以上の来場が見込めるけど、冬場は極端に減る。特に積雪期の1〜2月は、ほとんど来場が見込めない」
農業自体にも季節性があり、冬場は栽培できる作物が限られる。屋外での体験プログラムも天候に左右される。
「年間を通した収支では黒字になる計画だけど、月別の資金繰りを見ると…」
美咲はスプレッドシートをスクロールした。
「冬場の3ヶ月は大幅な赤字になる。この間の固定費をどう賄うかが課題ね」
陽介は窓の外を見た。厚い雪が農園一帯を覆っていた。
「予備費として計上していた資金も、想定外の地盤強化工事でほぼ使ってしまったしね」
建設開始後に判明した地盤の問題で、追加工事が必要になったのだ。建設会社からの見積もりは当初より30%増加し、計画の見直しを余儀なくされていた。
「私たちもTOCの専門家なのに、こんな基本的な問題を見落としていたなんて…」
美咲の声には落胆が混じっていた。
陽介は彼女の肩に手を置いた。
「自分たちの事業だと、客観視するのが難しいんだよ。でも、これも学びだよ」
二人は対策を考え始めた。「季節変動」という制約を前提に、どう事業設計を修正すべきか。
「冬場に収益を確保する方法は?」美咲が問いかけた。
「室内プログラムの充実が一つの方法かな。例えば、保存食作りや発酵食品の教室とか」
「加工品の販売強化も考えられるわね。夏野菜の保存加工品を冬に販売するとか」
「あとは会員制の導入かな。年間を通じた安定収入源として」
陽介が提案したのは「まるっと農園サポーター制度」という会員システムだった。年会費を払うことで、農産物の定期配送や体験プログラムの優先参加権などの特典が得られる仕組みだ。
美咲はアイデアに目を輝かせたが、すぐに別の懸念を口にした。
「会員制はいいアイデアだけど、初期の会員獲得が課題よね。まだ実績のない施設に年会費を払ってくれる人をどう集めるか…」
二人の議論は続いた。季節変動という制約に適応するための事業モデルの修正は避けられなかった。
「TOCで言うなら、『制約を特定し、活用する』段階から、『制約を改善する』段階に進む必要があるね」陽介が言った。
「そう、季節変動をただの問題ではなく、新たなビジネスチャンスに変えられないかしら」
二人はアイデアを膨らませていったが、解決策を見出すには時間が必要だった。そして、この「季節変動問題」は、彼らが直面する困難の始まりに過ぎなかった。
行政連携の複雑さ
「申し訳ありませんが、この件は別の部署の管轄になります」
2月中旬、町役場の農林課で、美咲は困惑した表情で担当者の言葉を聞いていた。
「まるっと農園」事業には、農業振興と地域活性化の側面があり、地元行政との連携が不可欠だった。特に農業体験施設としての許認可や、助成金・補助金の活用には行政の支援が重要だった。
しかし、実際に役場を訪れてみると、縦割り行政の壁にぶつかった。
「農業体験は農林課、観光要素は商工観光課、食育は健康福祉課…」
美咲はため息をつきながら、陽介にLINEでメッセージを送った。彼は別の部署で別の手続きを進めていた。
「部署ごとに方針や優先順位が違うし、連携が取れていないみたい」
彼女が直面していたのは、従来の枠組みに収まらない新しい事業モデルを行政に理解してもらう難しさだった。
「まるっと農園」は、単なる観光農園でも、従来の農業経営でもない。農業体験、食育、コミュニティ形成、地方創生など、複数の要素を含む複合的な事業だ。しかし、行政の制度はそうした横断的な取り組みを想定していないケースが多かった。
陽介が別の部署から戻ってきた。
「どうだった?」美咲が尋ねた。
「僕の方も難航してるよ。『前例がない』という言葉の壁にぶつかってる」
二人は役場のロビーのベンチに座り、状況を整理した。
「6つの部署を回って、4種類の申請書を提出して、それぞれに別の添付書類が必要…」美咲はメモを見ながら言った。
「しかも、ある部署では『地域活性化に貢献する事業』として歓迎されたのに、別の部署では『農地の適正利用の観点から検討が必要』と難色を示されたり」
陽介は考え込んだ。
「行政の立場も理解できるけどね。前例のない事業は、どの制度に当てはめるべきか判断が難しいんだろう」
美咲は頭を抱えた。
「でも、この状態では計画通りの4月開業は厳しいわ…」
陽介が静かに言った。
「誰か、行政内部で私たちの橋渡しをしてくれる人はいないかな」
その言葉をきっかけに、二人は人脈を総動員して、役場内部での「理解者」を探し始めた。西川融資担当者からの紹介で、企画政策課の若手職員・藤田と知り合うことができた。
「藤田さん、本当にありがとうございます」
3月上旬、藤田の協力を得て、関係部署が一堂に会する「まるっと農園プロジェクト検討会」が実現した。美咲と陽介は改めて事業の全体像と地域への貢献可能性を説明した。
「縦割りを超えた連携が必要なプロジェクトだからこそ、行政側も新しい対応の仕方を模索する価値があると思います」
藤田の言葉もあり、各部署の担当者の理解は少しずつ深まっていった。しかし、すべての問題が一気に解決したわけではなく、許認可や補助金申請の手続きは予想以上に時間を要した。
結果として、「まるっと農園」の正式オープンは、当初予定の4月から6月に延期せざるを得なくなった。
「2ヶ月の遅れは痛いね…」陽介が言った。
「でも、焦って不十分な状態でオープンするより、しっかり準備してからの方がいいわ」
美咲は現実的な判断をした。しかし内心では、計画の遅れによる資金繰りへの影響を心配していた。
人材確保の苦労
「応募者がたった3名…」
4月中旬、美咲は「まるっと農園」のスタッフ募集に対する応募状況を見て、肩を落とした。
「まるっと」の事業拡大に伴い、新たな人材確保が急務となっていた。特に「まるっと農園」オープンに向けては、農業指導員、料理講師、接客担当など、様々な役割のスタッフが必要だった。
「地方の人材不足は聞いていたけど、ここまでとは…」
実際、彼らが活動する地域では、少子高齢化と若者の流出により、働き手の確保が大きな課題となっていた。特に専門性の高い人材や、新しい取り組みに柔軟に対応できる人材は貴重だった。
陽介が「まるっと農園」の工事現場から戻ってきた。
「人材確保、どう?」
「厳しいわ」美咲は募集状況を説明した。「応募者3名のうち2名は70代で、もう1名は経験不足…」
陽介も頭を抱えた。
「従来の募集方法だけじゃ難しいかもしれないね。『制約』を前提に、別の方法を考える必要があるよ」
彼らは「人材確保」という制約にどう対応すべきか、TOCの考え方を活用して検討し始めた。
「全てを正社員で賄おうとするのは現実的ではないわね。もっと柔軟な働き方の組み合わせが必要かも」
美咲が提案したのは「多様な働き方の統合」というアプローチだった。
「例えば、基幹業務を担う少数の正社員と、特定のスキルを持つ専門家の時間単位契約、地域のシニアのパートタイム活用、繁忙期限定の季節スタッフ、それから学生インターンシップ…」
陽介も別の視点を加えた。
「地域外からの人材確保も検討する価値があるよ。例えば、都市部のプロフェッショナルが週末だけ来て指導するとか。あるいは、農業や食に関心のある若者を研修生として受け入れるとか」
二人の発想は、「人材不足」という制約を、多様な人々を巻き込む機会に変えるものだった。
具体的な行動として、まず地元の高校や専門学校と連携したインターンシッププログラムの構築に着手した。また、定年退職したシニア層の経験を活かす「まるっとシニアマイスター制度」も考案した。
さらに、美咲のネットワークを活用して、東京のプロフェッショナル(料理人、デザイナー、マーケティング専門家など)が定期的に訪問して指導・支援する「週末プロフェッショナル」制度も企画した。
こうした創意工夫により、人材確保の見通しは少し明るくなったが、依然として課題は残った。特に日常的な運営を担う中核スタッフの確保は難航していた。
「何か決定的なアイデアが必要ね…」
美咲はそう思案していたとき、「まるやま」の常連客である小林みどりさんが、孫を連れて店に立ち寄った。
「この子ね、大学で農業経営を勉強してるのよ。東京の大学だけど、今は春休みで帰省してるの」
美咲は小林さんの孫・優子(22歳)と話をする機会を得た。彼女は農業の6次産業化に関心を持ち、将来は地元で農業関連のビジネスを立ち上げたいと考えていた。
「『まるっと農園』のコンセプトは、まさに私が学びたかったことです!インターンシップとしてでも関わらせていただける可能性はありますか?」
優子の熱意に、美咲は可能性を感じた。そして翌日、陽介と優子を引き合わせた。
「彼女、将来有望だと思うわ。『まるっと農園』のインターンから始めて、将来的には中核スタッフとして育ってくれたら…」
陽介も優子との対話に手応えを感じたようだった。
「確かに可能性を感じるね。そして彼女のような若者が地元で活躍できる場を作ることこそ、私たちのミッションの一つだし」
こうして、人材確保の苦労の中にも、新たな可能性の芽が見えてきた。しかし、それはまだ始まりに過ぎず、持続的な人材育成と確保の仕組みづくりは、長期的な課題として残されていた。
資金繰りの現実
「これは…厳しい状況ね」
5月上旬、美咲は財務状況をまとめた資料を前に、思わずつぶやいた。「まるっと」の資金繰りが、予想以上に厳しくなっていたのだ。
当初の計画では、「まるやま」から「まるっと」への段階的な事業移管と並行して、「まるっと農園」の新規事業立ち上げを進める予定だった。資金計画も、それぞれの収益見通しに基づいて組まれていた。
しかし現実には、様々な想定外の事態が重なり、資金面での圧迫が生じていた。
「『まるっと農園』の開業遅延による収入減、建設費の予想外の増加、人材確保のための追加コスト…」
美咲は問題点を一つずつ書き出していた。加えて、「まるやま」から「まるっと」への移行過程でも、予想外の費用が発生していた。
「新会社立ち上げの初期コストが想定より30%増…『まるっとキッチン』の設備投資も予算オーバー…」
陽介も心配そうな表情で資料に目を通していた。
「僕の農業部門も厳しいんだ。冬の低温被害で一部の作物が予想より収穫量が減って…」
二人は、このままでは7月までの資金繰りが危ぶまれることを確認した。
「西川さんに相談してみる?追加融資の可能性は?」陽介が提案した。
美咲は難しい表情を見せた。
「西川さんにはこれ以上頼れないわ。すでに『まるっと』設立時に最大限の支援をしてもらったし、追加融資は現実的ではないと思う」
「クラウドファンディングは?」
「『まるっと農園』のクラウドファンディングは成功したけど、短期間で再度実施するのは難しいし、支援者に負担をかけることになるわ」
二人は資金繰り改善のための選択肢を検討した。
「経費削減」は最も直接的な対策だが、すでに必要最小限の運営を行っており、これ以上の大幅な削減は事業の質に影響する恐れがあった。
「収益増加」も重要だが、短期間で大きな効果を期待するのは難しい状況だった。
「返済条件の見直し」も一案だが、創業間もない企業への金融機関の対応は厳しいことが予想された。
「現実的な選択肢は…自己資金の投入かもしれないわね」
美咲は静かに言った。彼女には東京での仕事で蓄えた貯金があり、それを「まるっと」の運転資金として投入することも選択肢の一つだった。
「でも、それは最後の手段にしたいわ」
「そうだね」陽介も同意した。「今は『キャッシュフロー管理』に徹底的に焦点を当てるべきだと思う」
彼らは「キャッシュイン」と「キャッシュアウト」のタイミングを細かく分析し、支出の優先順位付けと延期可能な投資の見直しを行った。
「必要なのは『現金創出サイクル』の短縮だ」陽介が言った。「商品やサービスを提供してから現金化されるまでの期間を短くする工夫が必要」
例えば、「まるっとキッチン」では前払い制の導入や、「まるっと農園」では会員からの年会費の早期徴収などの施策を検討した。
美咲はTOCの「スループット会計」の考え方を思い出した。
「私たちは『利益』ではなく『キャッシュフロー』に焦点を当てるべきね。短期的には『在庫』の削減と『業務費用』の最適化が重要になるわ」
資金繰り対策は一つの解決策ではなく、複数の小さな施策の組み合わせで対応することになった。それは地道な努力の積み重ねであり、劇的な効果を期待するのは難しかった。
「焦らず、一歩ずつね」
美咲はそう言って自分を励ましたが、内心では不安が拭えなかった。創業期の資金繰りという「制約」は、彼女のビジネススキルだけでなく、精神的な強さも試すものだった。
二拠点生活の限界感
「もしもし、美咲さん?…美咲さん、聞こえますか?」
5月下旬、美咲は東京のアパートで、地元とのオンラインミーティング中だった。しかし、不安定なネット環境のため、何度も通信が途切れていた。
「すみません、もう一度お願いできますか?」
美咲は焦りを感じながら、急いでWi-Fiルーターを確認した。同時に、彼女のスマートフォンには未読メッセージが溜まり、メールボックスも次々と新しい通知で埋まっていく。
彼女の二拠点生活は、当初の想定以上に過酷なものになりつつあった。
「まるっと」の事業拡大と「まるっと農園」の開業準備が進む中、地元での彼女の存在は不可欠になっていた。一方で、東京での仕事も重要な収入源であり、そのバランスを取ることがますます難しくなっていた。
ミーティングを何とか終えた美咲は、疲れた表情で部屋の窓から東京の夜景を眺めた。かつては輝いて見えたその光景も、今は少し遠く感じられた。
彼女のスマートフォンが鳴った。陽介からだった。
「やあ、今日のミーティングどうだった?」
「通信環境のせいで何度も中断してしまって…もどかしかったわ」
「そうか…大変だね」
陽介の声には、心配と、少し距離感のようなものが混じっていた。
「最近、私たち、すれ違いが多いわね」美咲は静かに言った。
二人の結婚準備は進んでいたが、忙しさのあまり二人きりの時間を確保するのも難しくなっていた。
「うん…僕も感じてた」陽介が率直に答えた。「特に君が東京にいる間は、電話やビデオ通話だけじゃ、やっぱり限界があるよ」
「私も同じように感じてるわ。でも…」
美咲は言葉を選びながら続けた。
「今の東京での仕事は、私たちの事業にとっても重要な収入源だし、人脈やビジネスチャンスの面でもね」
「わかってるよ。君を責めてるわけじゃないんだ。ただ、現実として、この生活リズムは二人にとっても、事業にとっても、最適じゃないんじゃないかって思って…」
二人の会話には、これまでにない緊張感が漂っていた。
実際、美咲自身も二拠点生活の限界を感じ始めていた。当初は「東京と地方、両方の良さを活かす」という理想を掲げていたが、実際には両方の世界で中途半端になりがちだった。
「東京では『地方の視点』を評価されるけど、完全に地元に溶け込むわけでもない。かといって地元では『東京からの視点』を期待されるけど、常に不在がちになる…」
美咲は自分の位置づけに、少しずつ違和感を抱くようになっていた。さらに、肉体的な疲労も蓄積していた。頻繁な移動、時差のようなリズムの変化、常に荷物を持ち歩く不便さ…
「疲れてるんでしょ?」陽介の声が優しく響いた。
「…うん、少し」美咲は珍しく弱音を吐いた。
「無理しないでね。僕たちは『持続可能な幸せ』を目指してるんだろ?それなのに、互いに疲弊してしまっては本末転倒だよ」
「わかってる。でも、今すぐに解決策があるわけじゃなくて…」
「うん、すぐには無理だろうね。でも、中長期的にはこの生活スタイルを見直す必要があると思うんだ」
陽介の言葉には、現実を見据えた冷静さがあった。美咲も同意せざるを得なかった。
「あなたの言う通りよ。『二拠点生活』も一つの制約として、向き合う必要があるわね」
電話を切った後、美咲は手帳を開き、来月のスケジュールを見直した。びっしりと予定が詰まっていた。
「このままじゃ、持続不可能…」
彼女は自分の限界を感じていた。しかし、どう解決すべきか、明確な答えはまだ見えなかった。