
9-1:SNSバズの影響
「すみません、満席なんです…」
「明日の予約も…すみません、既にいっぱいで…」
「週末ですか?来週までお待ちいただければ…」
電話が鳴り止まない。山田はため息交じりに受話器を持ち替えていた。美食家・山下の投稿から一週間、「おかん」には問い合わせと予約の電話が殺到していた。
「どうなってるんだ、これは…」
一時的な騒ぎではなく、日に日に勢いを増している。SNSでの拡散効果は、彼らの想像を遥かに超えていた。
「山田さん、大丈夫ですか?」
ナナが心配そうに声をかけた。
「ああ…いや、嬉しい悲鳴なんだが」山田は苦笑した。「こんなことは開店以来初めてだよ」
「山下さんの投稿のインパクトがすごいんです」
ナナは自分のスマートフォンを見せた。山下の投稿は既に「いいね」が5,000を超え、何百ものコメントが寄せられていた。さらに、その投稿をシェアした人々による二次拡散も広がっていた。
「彼女のフォロワーの中に、別の小さなインフルエンサーが何人もいて、それぞれが自分のフォロワーに『おかん』を紹介している形です」
「なるほど…雪だるま式に広がっているわけか」
「はい。特にこの写真」
ナナは金子の「とろける短角牛の炙り」の写真を指さした。肉の断面のジューシーさが伝わる美しい一枚だ。
「これが『肉テロ』として大きく拡散されています。『食べたい!』『どこの店?』というコメントが殺到しているんです」
「肉テロ?」
「美味しそうな肉料理の写真を見ると、無性に食べたくなってしまう現象のことです」山田は呆れたように首を振った。「若者の言葉は難しいな…」
「でも、この影響はリアルな集客に直結しています」
ナナは嬉しそうに続けた。
「『おかん』のフォロワーも3,000人を突破しました。目標だった数字に、わずか2週間で到達です!」
「すごいな…」
山田が感心していると、金子と村上が厨房から出てきた。
「材料の発注量を増やした方がいいですね」
金子が真剣な表情で言った。
「現状のペースが続くなら、週末は通常の1.5倍は必要です」
「そうだな…」
山田は頷いた。うれしい悲鳴とはいえ、対応を間違えれば機会損失に直結する。
「田口さんにも連絡しておきましょう。特選肉の確保をお願いしないと」
「そうだ。田口とは良好な関係を保たないとな」
村上も静かに意見を述べた。
「あれだけの肉料理が評判になっているんだ。今後も安定して供給してもらえるよう、早めに手を打つべきだ」
「わかりました。今日にでも田口さんに直接会って、今後の予測を伝えておきます」
金子は田口との関係を特に大切にしていた。彼の目利きと供給があってこそ、「おかん」の肉料理が成り立っていたからだ。
「それと、メニュー構成も考え直す必要があるかも」
金子は考え込みながら言った。
「評判の料理はそのままに、効率的に提供できる料理も増やさないと、厨房が回らなくなる可能性があります」
「なるほど。忙しくなるからこそ、オペレーションの効率化が重要だな」
山田は頷いた。「おかん」は小さな店だ。席数を増やすことはできないが、回転率を上げることで、より多くの客に料理を提供することは可能だった。
「料理の質を落とさず、かつ効率的に。難しい課題だな」
「でも、それこそが料理人の腕の見せどころです」
金子は自信を持って言った。
「村上さんの伝統的な技術をベースに、低温調理などの現代的技術も組み合わせれば、準備工程を効率化できます。それにより、注文を受けてからの調理時間を短縮することが可能です」
「なるほど」
村上も考え込んでいた。彼は最初、効率化という言葉に抵抗を示していたが、今では「質を落とさない効率化」の意義を理解していた。
「出汁は朝引いておき、低温調理も前日から仕込んでおく。最終調理だけをオーダーごとに行えば、スピードと品質の両立は可能だな」
「そうですね!それなら村上さんの技術と、私の低温調理の知識を最大限に活かせます」
二人の建設的な議論に、山田は満足げに頷いた。
「よし、その方向で進めよう。明日のミーティングで具体的なプランを立てることにしよう」
翌日の営業は、予想通り大混雑だった。特に夕方以降は途切れることなくお客さんが訪れ、満席状態が続いた。
「金子さん、とろける短角牛の炙りのオーダーがまた3つ入りました!」
ナナが厨房に声をかけた。
「了解!あと5分で出せるよ」
金子は低温調理済みの肉を仕上げる作業に集中していた。田口から仕入れた特選肉は、前日から低温調理しておいたものだ。注文を受けてからは、表面を炙り、特製の山葵塩を添えるだけで提供できる。
「このやり方なら、品質を落とさずに対応できますね」
村上も満足そうだった。彼自身も出汁巻き玉子の注文が急増し、忙しく立ち働いていた。しかし、朝から丁寧に引いておいた出汁のおかげで、味に妥協することなく効率的に調理できていた。
「新規のお客様と常連さん、半々くらいの割合ですね」
閉店後の反省会で、田中が報告した。
「新規のお客様は皆、SNSで見たと言っています。特に山下さんの投稿や、それを見た他の方の紹介で」
「そして何より嬉しいのは、新規のお客様の満足度が高いこと」
ナナが嬉しそうに付け加えた。
「『SNSの写真より美味しい!』『期待以上だった』という声をたくさんいただきました」
「それは良かった」
山田は安堵の表情を浮かべた。
「SNSでの期待値を実際の料理が上回ることが重要だからな。そうでなければ、一過性のブームで終わってしまう」
「はい、そこは私たちが最も気をつけていたポイントです」
金子も頷いた。
「いくら素晴らしい写真を撮っても、実際の料理がそれに見合うものでなければ、お客様は失望します。むしろ、写真よりも実物の方が感動していただけるよう、細部まで気を配っています」
「金子くんと村上の腕があってこそだな」
山田は二人を誇らしげに見た。
「これからも品質を第一に、着実に「おかん」の評判を高めていこう」
SNSでのバズは、単なる一時的な人気ではなく、「おかん」の本質的な価値を多くの人に知ってもらうきっかけとなっていた。それは金子にとっても、料理人としての自信を深める経験だった。
「あの…山田さん」
金子が少し遠慮がちに切り出した。
「SNSの評判が高いうちに、新メニューの開発も進めたいと思うのですが」
「新メニュー?もちろん、良いアイデアだ」
「はい。特に『低温調理×伝統技法』のコンセプトをさらに進化させたいと考えています」
「どんなメニューを考えている?」
「田口さんが最近、特別な黒毛和牛を仕入れられるようになったそうです。それを使った『黒毛和牛の低温調理 季節の山菜添え』という一品を」
「素晴らしいアイデアだ」
山田は即座に賛成した。
「山下さんの投稿で注目を集めている今こそ、さらに魅力的なメニューを投入するチャンスだ」
「村上さんはどう思われますか?」
金子は師匠の意見も重視していた。
「悪くない」村上は簡潔に答えた。「季節の山菜には私のアイデアも取り入れたい」
「ぜひお願いします!」
このように、SNSでのバズを単なる一過性の現象で終わらせるのではなく、「おかん」の本質的な価値を高めるための機会として活用していった。
そして、バズから一ヶ月後、「おかん」には驚くべき変化が起きていた。
「山田さん、すごいことになっています」
ナナが嬉しそうに報告書を持ってきた。
「先月の売上が、過去最高を記録しました!チェーン店出店前と比べて、なんと30%増です!」
「30%増だって?」
山田は驚いて目を見開いた。
「はい!特に金子さんの低温調理肉料理のシリーズが大ヒットしています。『とろける短角牛の炙り』は連日完売状態です」
「これは素晴らしい」
山田は深く頷いた。
「チェーン店の出店という危機が、かえって私たちの強みを引き出すきっかけになったようだな」
「まさに『ピンチをチャンスに』ですね」
金子も嬉しそうに言った。
「今では平日も満席になることが増えてきました。この勢いを大切にしたいです」
SNSでのバズは、単に客足を増やしただけでなく、「おかん」の個性と価値を多くの人に知ってもらうきっかけとなった。そして何より、そこで提供される料理の質が本物だったからこそ、一過性のブームではなく、持続的な人気につながっていったのだ。
9-2:新たな客層
「あの…すみません、金子さんはいらっしゃいますか?」
ある平日の夜、若い女性のグループが「おかん」を訪れた。明らかに常連ではない新規客だ。
「はい、私が金子ですが」
厨房から出てきた金子に、女性たちは目を輝かせた。
「やっぱり!インスタで見た通りの方だ!」
「低温調理の料理、ぜひ食べてみたいです」
「写真よりカッコいいです!」
金子は照れくさそうに頭を下げた。
「ありがとうございます。ぜひゆっくり楽しんでいってください」
こうした光景は、最近の「おかん」では珍しくなくなっていた。SNSの影響で、今までとは明らかに異なる客層が訪れるようになったのだ。
「若い女性のグループが増えたね」
閉店後、山田が感慨深げに言った。
「これまでの「おかん」は、男性のサラリーマンや地元の常連さんが中心だったけど」
「はい、客層が大きく変わってきています」
ナナは分析結果を示した。
「これまでは40〜60代の男性が約70%を占めていましたが、現在は20〜30代の女性が約40%まで増えています。特にインスタグラムからの来店が多いです」
「興味深いデータだな」
山田は感心した。
「若い女性客が増えることで、雰囲気も明るくなってきた気がする」
「それに、彼女たちは写真をよく撮りますから、さらなるSNS拡散にもつながっています」
ナナは嬉しそうに続けた。
「最近は『おかん』の料理を撮影している投稿が毎日のように増えていて、私たちが公式アカウントで投稿しなくても、お客様が宣伝してくださっている状態です」
「それは素晴らしいな」
金子も感慨深げに言った。
「ただ、新しい客層に応じた対応も必要かもしれません」
「どういうこと?」
「例えば、写真映えする盛り付けのさらなる工夫や、女性向けのヘルシーなメニューの開発など」
「なるほど」山田は頷いた。「新しい客層のニーズに応える一方で、従来の常連客も大切にしないとな」
「そこなんです」
金子は真剣な表情になった。
「新規客と常連客のバランスをいかに取るか。これが今後の「おかん」の重要な課題だと思うんです」
村上も話に加わった。
「確かに、最近は常連の顔をあまり見なくなった気がする」
「混雑して入りづらくなってしまったのかもしれません」
金子は心配そうに言った。
「長年の常連客に『おかん』が変わってしまった、と感じられるのは避けたいですね」
「そうだな…」
山田も頷いた。
「常連客あっての「おかん」だ。新規客を大切にしつつも、常連客をないがしろにするわけにはいかない」
「何か対策はありますか?」
田中が珍しく発言した。彼も長年の常連客との関係を大切にしていた。
「常連客向けの特別対応を考えています」
金子は自分のノートを取り出した。
「『常連ノート』をもとに、常連のお客様の好みや特別な日を記録し、それに合わせたおもてなしをする」
「いいアイデアだね」
「それから、『常連限定メニュー』も作りたいと思います。公式メニューにはない、知る人ぞ知る特別メニューです」
「それは面白そうだ」
山田も興味を示した。
「さらに、混雑時でも常連客が来店しやすいよう、常連専用の予約枠を確保してはどうでしょう」
「なるほど。一日2〜3組の枠を常連用に残しておくといいかもしれないな」
こうして、新規客と常連客のバランスを取るための対策が次々と考案された。「おかん」は人気店になりつつも、その本質である「地域に根ざした居酒屋」という価値を失わないよう、細心の注意を払っていった。
同時に、新たな客層のニーズにも応えていく必要があった。
「新メニューの候補ができました」
金子は数日後、新しいメニュー案を提示した。
「『季節野菜の低温オイル蒸し』と『魚介の西京味噌漬け低温調理』です。どちらも女性に好まれる味わいと見た目を意識しています」
「そして、これらは原価率も抑えめなので、収益性も良いですね」
山田は経営的な視点からも評価した。
「さらに、この『和のタパス盛り合わせ』は小さな器に様々な一品を盛り付けたもので、シェアしやすく、写真映えも抜群です」
「なるほど、若い女性グループが好みそうなメニューだな」
「はい。そして、これらはすべて村上さんの伝統的な技術をベースにしています」
金子は村上を尊重する姿勢を崩さなかった。
「味の根幹は和食の伝統にあり、それを現代的な調理法や盛り付けで表現する。これが「おかん」のコンセプトです」
村上も静かに頷いた。
「伝統を守りながら進化する。悪くない方向だ」
「ありがとうございます」
金子は師匠の言葉に安堵した。
新メニューの導入は成功し、若い客層からも好評を博した。特に「和のタパス盛り合わせ」は、写真映えする見た目と、多様な味を少しずつ楽しめる構成が人気となった。
一方で、常連客向けの対応も強化された。「常連ノート」を活用した個別対応は、長年の常連客に喜ばれた。彼らの誕生日や記念日に合わせた特別な一品を提供したり、その日の体調や気分に合わせたメニューを提案したりと、きめ細やかなサービスを心がけた。
また、チェーン店からの流入客も増えていた。これは意外な傾向だった。
「最近、『炎の居酒屋ダルマ』で食事した後、デザート代わりに「おかん」に来るというお客様が増えています」
ナナが報告した。
「『ダルマ』の安さと「おかん」の質の高さ、両方を楽しむというスタイルのようです」
「面白い現象だな」
山田は苦笑した。
「敵視していた相手が、かえって相乗効果を生んでいるとは」
「『ダルマ』で満足できなかったお客様が、口コミで「おかん」を知って来店されるケースも多いです」
「なるほど…競合があることで、かえって「おかん」の良さが際立つということか」
金子は深く考え込んだ。
「価格だけでなく、料理の質と心のこもったサービスで勝負する。それが「おかん」の進むべき道なんですね」
「その通りだ」
山田は力強く頷いた。
「チェーン店との価格競争には決して勝てないが、料理人の顔が見える、一皿一皿に魂を込めた料理を提供する。それこそが私たちの強みだ」
こうして「おかん」は、新たな客層を取り込みながらも、その本質的な価値を守り続けた。SNSを通じて広がった人気は、一過性のブームではなく、持続的な支持へと変わっていった。
そして、その中心にいた金子は、料理人としての自分の道と個性を、より強く自覚するようになっていった。
9-3:常連との絆
「いつもの」
カウンターに座った村松さんの一言に、金子は微笑んだ。
「かしこまりました。村松さんの角煮ですね」
「ああ、楽しみにしてたよ」
村松さんは「おかん」の常連客の一人だ。彼のために金子が開発した「村松さんの角煮」は、公式メニューにはない特別な一品。村松さんの好みに合わせて、甘めの味付けで、じっくりと圧力調理した豚バラ肉の角煮だ。
「いつ来ても、覚えててくれるのが嬉しいね」
村松さんが嬉しそうに言った。
「当然です。村松さんは「おかん」の大切なお客様ですから」
金子は角煮の準備をしながら答えた。「常連ノート」のおかげで、常連客一人一人の好みや特別な日を記憶していることができる。
「最近は混んでるみたいだね」
「はい、おかげさまで」
「SNSの影響かい?若い人も増えたようだね」
「はい、ありがたいことに新しいお客様も増えています。でも、村松さんのような常連のお客様あっての「おかん」です」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
村松さんは満足げに微笑んだ。
「ところで…」
村松さんは少し言いにくそうに続けた。
「先週来たときは予約が取れなくてね。少し寂しかったよ」
「申し訳ありません」
金子は心から謝った。
「実は、常連のお客様向けに、常連枠を作りました。次回からはぜひそちらをご利用ください」
「常連枠?」
「はい。一日3組限定で、常連のお客様専用の予約枠です。公式サイトには載せていませんが、常連のお客様だけにお伝えしています」
「それは嬉しいね!」
村松さんの表情が明るくなった。
「そうだ、これ持ってきたよ」
村松さんはバッグから小さな包みを取り出した。
「今年の新茶だ。友人が静岡でお茶農家をやっているんだ。良かったら使ってみてくれ」
「ありがとうございます!ぜひ料理に活かします」
金子は感謝の気持ちを込めて包みを受け取った。常連客からのこうした差し入れも、「おかん」の大切な財産だった。
「村松さんの新茶、明日にでも何か新しい料理に使わせていただきますね」
「楽しみにしているよ」
こうした常連客との深い絆は、「おかん」の根幹を支えるものだった。SNSでの人気で新規客が増える中、常連客との関係を大切にする姿勢は変わらなかった。
「山さん、いらっしゃい!」
別の日には、長年の常連である山下さん(美食家の山下とは別人)が来店した。
「今日は何がいい?」
「そうだな…何かおすすめある?」
「実は山さんのために新しいメニューを考えていたんです」
金子は嬉しそうに言った。
「『山さんの角煮』です。山さんの好みに合わせて、少し辛めの味付けで、八角とクローブの風味を効かせました」
「おお、それは楽しみだ!」
山下さんの目が輝いた。
「私の名前が付いているなんて、光栄だな」
常連の名を冠した「隠れメニュー」は、次々と開発された。「佐藤さんの出汁焼きおにぎり」「田中さんの海鮮丼」「鈴木さんのとろける牛タン」など、それぞれの常連の好みに合わせた特別メニューだ。
これらは公式メニューには載っていないが、常連客の間では「常連限定の特権」として人気を博していた。そして、その存在を知った新規客は「常連になりたい」と思うようになる。こうして「おかん」の客層は自然と循環していった。
「金子さん、最近の常連対応は素晴らしいですね」
山田が感心した様子で言った。
「常連のお客様の満足度が明らかに上がっています。リピート率も高く、新規のお客様も常連化する流れができています」
「ありがとうございます」
金子は謙虚に答えた。
「『常連ノート』の活用と、お客様一人一人の好みを覚えることを大切にしています」
「あのノート、すごいですよね」
ナナが感心した様子で言った。
「常連さんの好みだけでなく、お誕生日や記念日まで記録されていて。しかも、前回の来店時の様子や健康状態まで」
「細部まで気を配ることが、料理人の仕事だと思っています」
金子はそう答えた。
「食材と同じくらい大切なのが、食べてくださる方への配慮です」
村上も静かに頷いた。彼もまた、長年かけて常連客との深い関係を築いてきた料理人だった。
「常連を大切にする姿勢は、正しい」
村上の短い言葉に、金子は深く頷いた。
「ありがとうございます。村上さんから学んだことです」
常連客と新規客のバランスを取りながら、「おかん」はさらなる発展を遂げていった。新規客も、「おかん」の料理とサービスの質の高さに魅了され、リピーターとなり、やがて常連へと育っていく。そのサイクルが確立されていった。
「金子さん、この前インスタで見た料理、また食べに来ました!」
最初は SNS で来店した若い女性客も、二度三度と訪れるうちに顔を覚えられ、やがて「いつもの」と言える関係になっていく。
「ノブミさん、いらっしゃい。前回は鴨料理が気に入ってくれたよね。今日は新作の『鴨と季節野菜の低温調理』があるよ」
「覚えていてくれたんですね!ぜひそれをお願いします」
こうした一人一人との関係を大切にする姿勢は、「おかん」の評判をさらに高めていった。
「行きつけのお店ができた」と感じてもらえることが、最高の成功だと金子は考えていた。その思いは、村上も山田も、田中もナナも共有していた。
新規客と常連客の心地よいバランス。それこそが「おかん」の目指す姿だった。
9-4:料理人としての自覚
「金子シェフ、今日も素晴らしい料理をありがとうございました」
帰り際の客からそう声をかけられ、金子は少し戸惑いながらも頭を下げた。
「ありがとうございます。またお越しください」
客が去った後、金子はふと考え込んだ。「シェフ」と呼ばれることに、まだ慣れない。しかし、最近はそう呼ばれることが増えていた。
「金子シェフ」「金子さんの料理」というフレーズが、客の会話や SNS のコメントに頻繁に登場するようになっていた。
「金子くん、考え事か?」
山田が声をかけてきた。
「いえ…ただ、最近『シェフ』と呼ばれることが増えて、少し戸惑っているだけです」
「それだけ認められているということだよ」
山田は微笑んだ。
「君はもう立派な料理人だ。それを自覚していいんだよ」
「でも、まだまだ未熟ですし…村上さんに比べれば…」
「村上は村上。金子くんは金子くん。それぞれ独自の価値がある」
山田の言葉に、金子は考え込んだ。確かに、最近は自分の料理に対する自信も深まっていた。SNS での評判や、直接客から聞く感想、そして何より村上からの認証。それらすべてが、彼の料理人としての自覚を育んでいた。
「料理人としての金子流…ですか」
「そう。君には君の個性がある。それを恐れずに発揮していい」
閉店後、金子は一人厨房に残って、今日一日を振り返っていた。主力メニューである低温調理の肉料理や、村上との共同開発メニューは連日好評だ。特に「金子流」と評される低温調理の料理は、「おかん」の新たな看板となりつつあった。
そこに村上が現れた。
「まだいたのか」
「はい、少し考え事をしていまして…」
村上は特に何も言わず、並んで掃除を始めた。二人は黙々と作業を続けた。
しばらくして、村上が静かに口を開いた。
「最近、お前の料理を食べに来るお客さんが増えたな」
「はい…ありがたいことです」
「恥ずかしくないか?」
突然の問いに、金子は戸惑った。
「恥ずかしい…ですか?」
「ああ。お前の名前を冠した料理を出す。その責任を感じているか?」
金子は考え込んだ。村上の問いは鋭い。料理人の名を冠した料理を出すということは、それだけの自信と責任が必要だということだ。
「正直、まだ自分の料理に完全な自信があるわけではありません」
金子は真摯に答えた。
「でも、だからこそ毎日精進しています。お客様の期待に応えられるよう、一皿一皿に魂を込めて」
村上はじっと金子を見つめた後、静かに頷いた。
「その姿勢が大事だ。自信過剰でもなく、卑屈でもなく。常に向上心を持って料理に向き合う」
「はい」
「私から見れば、お前はもう立派な料理人だ。『金子流』という言葉に恥じない料理を作っている」
村上からの言葉に、金子は感動した。師匠からの認証。それは何物にも代えがたい価値があった。
「ありがとうございます。これからも精進します」
「ただし」村上は少し厳しい表情になった。「料理人としての名前が広まるほど、責任も重くなる。それを忘れるな」
「はい、肝に銘じます」
翌日、金子は新たな決意を胸に厨房に立った。料理人としての自覚と責任。それは重いものだが、同時に誇りでもある。
「今日のスペシャルメニューです」
金子は山田に新作料理を見せた。
「『金子流 季節の恵み 低温調理プレート』です」
盛り付けられた料理は、まさに芸術品のように美しかった。低温調理した肉、魚、そして季節の野菜が、調和のとれた一皿に仕上がっている。
「素晴らしい!」
山田は感嘆の声を上げた。
「これは間違いなく『金子流』と呼ぶにふさわしい一品だ」
「ありがとうございます」
金子は照れながらも、誇らしげに微笑んだ。
「実は…これをメインに、『金子流コース』を考えています」
「金子流コース?」
「はい。前菜からデザートまで、すべて私の料理哲学が詰まった一連の料理です。もちろん、村上さんから学んだ技術を基礎にしていますが」
「素晴らしいアイデアだ!」
山田は即座に賛成した。
「村上には?」
「まだ相談していません。まずは山田さんの意見を…」
「私は大賛成だ。明日にでも村上に相談してみるといい」
翌日、金子は緊張しながらも村上に「金子流コース」の構想を話した。
「なるほど…」
村上は腕を組んで聞いていた。
「そういう方向に進むか」
「はい…もちろん、村上さんの技術や哲学が基礎にあってこそですが」
「いいだろう」
村上の一言に、金子は驚いた。
「本当ですか?」
「ああ。弟子が師を超えていくのは当然だ。自分の道を進め」
「師を超えるなんて、とんでもありません!」
金子は慌てて否定した。
「私はまだまだ村上さんの足元にも及びません」
「今はな」村上はわずかに微笑んだ。「だが、いずれはそうなるだろう。それが料理人の道だ」
「村上さん…」
「自分の名を冠したコースを作るならば、覚悟を決めろ。それだけだ」
「はい、精一杯の料理を作ります」
金子の決意に、村上は満足げに頷いた。
こうして「金子流コース」の開発が本格的に始まった。金子は村上のアドバイスを受けながらも、自分の料理哲学を形にしていった。低温調理の精密さと、伝統的な和食の技法の融合。季節感を大切にし、五感に訴える盛り付け。そして何より、食材の本質を引き出す調理法。
一ヶ月の開発期間を経て、ついに「金子流コース」が完成した。予約制の特別コースとして提供することになり、一日限定2組のみの受付だ。
「金子流コース、初日から予約が埋まりました」
ナナが嬉しそうに報告した。
「SNSでの告知だけで、一週間分の予約が完売です」
「それは嬉しいね」
山田も満足そうだった。
「金子くんの名前が、ブランドになりつつあるということだ」
「でも、それだけ責任も重大です」
金子は気を引き締めた。
「期待に応えられるよう、最高の料理を提供します」
「金子流コース」の初日。予約の二組はどちらも、金子のファンを自称する客だった。
「金子シェフ、楽しみにしていました」
「インスタグラムで拝見して、絶対食べたいと思ったんです」
金子は緊張しながらも、一品一品を丁寧に作り、自ら説明しながら提供した。
「こちらは『季節野菜の低温調理 五色の楽しみ』です。五種類の野菜をそれぞれ最適な温度で調理し、その本来の甘みと食感を引き出しています」
客たちは目を輝かせながら料理を味わった。
「素晴らしい…野菜本来の甘みがこんなにも豊かだなんて」
「見た目も美しい。まるで宝石箱のようです」
料理が進むにつれ、金子の緊張も解けていった。客の喜ぶ顔を見ることが、何よりの励みになる。
「金子シェフ、本当に素晴らしい料理の数々をありがとうございました」
コースの最後に、客たちは立ち上がって拍手までしてくれた。
「恐縮です。お楽しみいただけて嬉しいです」
金子は深々と頭を下げた。
「これからも『金子流』の料理を楽しみにしています」
「ぜひまた来てください」
客が帰った後、厨房に残った金子は達成感と同時に、新たな責任感も感じていた。
「金子流」という名を背負うということ。それは単に自分の料理スタイルを持つということではなく、その名に恥じない料理を提供し続ける責任を負うということだ。
「どうだった?」
村上が声をかけてきた。
「緊張しましたが…お客様に喜んでいただけました」
「よかったな」
村上は珍しく柔らかい表情を見せた。
「自分の名前を冠した料理を出すようになったか…」
「はい…村上さんのおかげです」
「いや、それは違う」
村上はきっぱりと言った。
「それはお前自身の努力の結果だ。誰のおかげでもない」
「村上さん…」
「料理人は、最終的には一人で立つものだ。師匠や仲間に支えられることはあっても、包丁を握るのは自分自身だ」
金子は深く頷いた。
「自分の料理に自信と誇りを持て。それが料理人としての第一歩だ」
「ありがとうございます。これからも精進します」
金子の中で、料理人としての自覚がさらに深まった瞬間だった。
「金子流」という名を持つことへの誇りと責任。それは彼の新たな原動力となった。
これからも研鑽を積み、技術を磨き、料理哲学を深めていく。そして、一皿一皿に魂を込め、食べてくれる人に喜びと感動を届ける。それが料理人・金子誠の生き方だと、彼は心に誓った。