呼吸と味わう人生 第7章:肉と技の探求

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7-1:肉の仕入れルート

「今日は市場見学だ」

朝の六時、村上が金子に告げた。料理長補佐となって一ヶ月が経ち、村上は金子に料理の技術だけでなく、食材の仕入れや選び方についても教え始めていた。

「はい、楽しみです」

金子は明るく答えた。市場で直接食材を見る機会は貴重だと感じていた。特に、プロの目利きである村上の選び方を学べるのは、大きな財産になるはずだった。

二人はタクシーで市場へと向かった。まだ薄暗い早朝の街を抜け、市場の活気に満ちた世界へと足を踏み入れる。

「ここが市場か…」

金子は圧倒されたように周囲を見回した。広い場内には、すでに多くの仲買人や料理人が行き交い、威勢のいい掛け声が飛び交っていた。新鮮な魚介類、色とりどりの野菜、様々な肉類…すべての食材が並んでいる。

「今日は特に肉を見ていく」

村上の言葉に、金子は頷いた。「おかん」では和食を中心としながらも、肉料理のメニューも充実させていた。特に最近は、金子の低温調理技術を活かした肉料理が人気メニューになりつつあった。

「まずは、いつも取引のある『山本商店』だ」

村上に導かれ、金子は肉の卸売店に向かった。店主の山本は、村上の姿を見つけるとすぐに笑顔で迎えてくれた。

「おや、村上さん!お久しぶりです。復帰されたんですね」

「ああ。こちらは金子、うちの料理長補佐だ」

「はじめまして、金子です。よろしくお願いします」

金子が丁寧に挨拶すると、山本も笑顔で応じた。

「村上さんが連れてくるなら、目利きのできる若手なんでしょうね」

「いや、まだまだだ。今日は見学に来た」

村上は謙虚に答えた。

「今日はどんな肉をお探しで?」

「いつもの鶏もも肉と、あとは…」

村上と山本の会話を聞きながら、金子は店内の肉に目を向けた。様々な部位の豚肉、牛肉、鶏肉が並んでいる。家庭用のスーパーマーケットとは明らかに質が違った。

「金子、こっちを見ろ」

村上が呼んだ方へ向くと、山本が取り出した鶏もも肉があった。

「この色と艶を見ろ。新鮮な証拠だ」

村上は鶏肉の特徴を一つ一つ解説してくれた。色の鮮やかさ、触ったときの弾力、香り…すべてが品質を判断する重要な要素だという。

「わかりました」

金子は熱心にメモを取りながら、プロの目利きを学んでいった。

山本商店での買い物を終え、村上は次の店へと向かった。そこは金子が知らない小さな肉店だった。

「ここは特別なんだ」

村上の声には、少しの期待感があった。何か良いものが手に入るのだろうと、金子は興味を持った。

しかし、その店の前で意外な出会いがあった。

「あれ?金子さんじゃないですか?」

声をかけてきたのは、市場の一角で何かを見つめていた中年の男性だった。

「あの…どちら様でしょうか?」

「覚えてないかな?田口だよ、田口肉店の」

金子は思い出せなかったが、丁寧に応じた。

「すみません、記憶にないのですが…」

「いやいや、まだ会ったことないんだ。俺が知ってるだけでね」

田口は笑いながら説明した。

「実は『おかん』に何度か食べに行ってて、厨房を覗いたことがあるんだ。最近評判の新しい料理人だって聞いたからね」

「そうだったんですか」

金子は照れくさそうに笑った。横にいた村上が尋ねた。

「田口…肉店?」

「ああ、あっちの方で店をやってるんです。田口雄一です」

田口は名刺を差し出した。「田口精肉店 代表 田口雄一」と印刷されている。

「私は村上、『おかん』の料理長だ」

「村上さん!うわ、あなたの料理、大ファンなんです!」

田口は嬉しそうに言った。彼は「おかん」の常連客だったようだ。

「あの出汁巻き玉子は絶品ですよ。あれだけの出汁の旨味を閉じ込めるなんて、本当に職人技です」

村上は少し照れたような表情をしたが、すぐに平静を取り戻した。

「お二人は何を見ていたんですか?」

金子が尋ねると、田口は指さした。

「この霜降り和牛を見てたんだ。だけど、何か変だと思ってね」

「変ですか?」

「ああ、この霜降りの入り方…均一すぎるんだ。自然な霜降りじゃない」

金子は興味を持って、その肉を見つめた。確かに霜降りの脂肪分布が、どこか人工的な印象を受ける。

「なるほど…」

村上も関心を持って見ていた。

「よく気づきましたね」村上が田口に言った。

「まあ、肉屋の目ってやつですよ」田口は照れくさそうに答えた。

そこから三人の会話は続き、田口の肉への知識と情熱が伝わってきた。三代続く精肉店の跡取りで、大学卒業後一度は別の道に進もうとしたが、家業の魅力に目覚め、二十代後半で店を継いだという。特に牧場との直接取引や熟成肉の技術に力を入れていると語る田口の話は、金子にとって非常に興味深いものだった。

「よかったら、うちの店も見に来ませんか?市場とはまた違った肉があるんですよ」

田口の誘いに、村上は金子を見た。

「行ってみるか?」

「はい、ぜひ」

金子は即座に答えた。村上も特に予定がなかったようで、三人は市場での買い物を終え、田口の店へと向かった。

田口精肉店は、市場から少し離れた住宅街にあった。三代続く老舗らしい趣のある外観だが、店内は清潔でモダンな雰囲気に整えられていた。

「いらっしゃい、ちょっと汚いけど」

田口は謙遜しながらも、誇らしげに店内を案内した。

「市場には出さない特別な肉もあるんですよ」

田口は奥の冷蔵庫から一塊の肉を取り出した。

「これは特別なルートで仕入れた短角牛のザブトン。市場じゃ手に入らないんです」

金子は興味深そうに肉を観察した。美しい霜降りと鮮やかな赤身のバランスが絶妙で、思わず息を呑むほどだった。

「素晴らしい肉ですね…」

「でしょう?この肉を低温調理したら、どんな味になるか興味あるなぁ」

田口の言葉に、金子は驚いた。

「低温調理、ご存知なんですか?」

「ああ、最近の料理技術にも興味があってね。特に『おかん』で金子さんが出してる低温調理の肉料理、食べてみて衝撃を受けたんだ」

金子は嬉しさで顔が紅潮した。自分の料理が専門家に評価されたのだ。

「ぜひ、この肉で低温調理を試してみませんか?」

田口は肉を差し出した。

「え?でも、こんな高級な肉を…」

「いいんですよ。肉屋として、自分の肉がどう料理されるか知りたいんです」

村上も珍しく同意した。

「貴重な機会だ。ありがたく頂戴しよう」

帰り道、金子は田口から受け取った短角牛のザブトンを大事そうに持っていた。

「いい出会いだったな」

村上が静かに言った。

「はい。田口さんはすごい方ですね。肉への知識と愛情が半端ない」

「そういう専門家との出会いと信頼関係が、料理人にとっては宝になる」

村上の言葉に、金子は深く頷いた。

「おかん」に戻ると、金子はすぐに短角牛の低温調理の準備に取りかかった。村上も興味津々で見守っている。

「56℃で9時間、真空パックして低温調理します。表面だけ最後に焼き色をつければ…」

金子は丁寧に肉を下処理し、塩、胡椒、ニンニクパウダーで下味をつけた。

「仕上げは薬草塩でいこう。ローズマリーとタイムを混ぜて…」

村上は黙って金子の手際を観察していた。批判するでもなく、口を出すでもなく、ただ見守っている。それは金子のアプローチを尊重している証だった。

翌日、低温調理が終わった短角牛を仕上げる時、田口も「おかん」を訪れた。

「できましたか?楽しみです!」

「はい、ちょうど今、仕上げようとしていたところです」

金子は低温調理した肉を袋から取り出し、キッチンペーパーで水気を拭き取った。表面だけをフライパンで素早く焼き色をつけ、5分間休ませてから切り分ける。断面は均一なピンク色で、肉汁があふれ出すことなく、しっとりとしていた。

「できました」

三人で試食する。まず村上が一口食べ、静かに頷いた。

「うまい」

村上にしては珍しい率直な褒め言葉だった。

次に田口が食べる番だった。彼は一口食べると、目を見開いた。

「これは…素晴らしい!肉本来の旨味を最大限に引き出していますね。こんな食感、プロの料理人でも出せる人は少ないですよ」

金子は照れながらも嬉しそうに言った。

「田口さんの目利きがあってこそです。素晴らしい肉だからこそ、この味になるんです」

「これは…『おかん』のメニューに加えるべきだね」村上が意外な提案をした。

「本当ですか?」

「ああ。『田口特選短角牛の低温調理 薬草塩添え』といったところか」

山田もその試作品を食べ、即座に賛成した。

「これは絶対に売れる!しかも、他店では真似のできない一品だ」

「田口さん、これからも良い肉があったら、分けていただけないでしょうか?」

金子が尋ねると、田口は嬉しそうに笑った。

「もちろん!喜んで協力しますよ。今度はイベリコ豚も取り寄せてみようかな。金子さんの料理で、どんな味になるか楽しみです」

「田口さんとは、『おかん』の特別価格で取引させてもらいたい」

山田が商売人らしく提案した。田口も快く同意し、その場で握手を交わした。

「これからもよろしくお願いします」

金子は心から言った。田口との出会いは、彼の料理人としてのキャリアにおいて、大きな転機となりそうな予感があった。質の高い肉を安定して仕入れられることは、料理の幅と質を高める上で非常に重要だからだ。

「田口さんに紹介された短角牛の低温調理…新メニューの目玉になりそうだな」

山田は満足そうに言った。村上も同意の表情を見せた。

「金子、これからも精進しろ。良い肉を活かせる技術を磨け」

「はい!」

金子は決意を新たにした。肉の仕入れルートを確保し、料理の幅を広げる。その第一歩を踏み出したのだ。

7-2:低温調理の導入

「本日から『シェフスパン』低温調理器を厨房に正式導入します」

金子が山田と村上の前でプレゼンテーションを行っていた。これまで自前の低温調理器を使用していたが、いよいよ「おかん」の正式な設備として導入することになったのだ。

「投資額は3万8千円ですが、新メニューによる売上増で一ヶ月以内に回収できると試算しています」

金子は詳細な収支計画と、新メニューの提案を説明した。田口から仕入れる高級肉を使った低温調理メニューは、すでに評判となっており、正式導入の後押しとなっていた。

「賛成だ」山田があっさりと承認した。「すでに実績が出ている以上、正式導入は当然だろう」

村上も静かに頷いた。最初は懐疑的だった低温調理だが、その効果と可能性を次第に認めるようになっていた。

「ありがとうございます」

金子は安堵の表情を浮かべた。厨房に低温調理器が常設されることで、より多様なメニュー開発が可能になる。

「では、新メニュー第一弾として『短角牛の低温調理 薬草塩添え』を正式メニューに加えたいと思います」

「値段は?」

山田の質問に、金子は答えた。

「原価率と市場価格を考慮して、2,800円が適切だと思います」

「2,800円?少し安いんじゃないか?」

村上が意外な反応を示した。

「原価率は38%になり、少し高めですが…」

「この品質なら3,500円でも売れるぞ」

村上の提案に、金子は戸惑った。

「いえ、2,800円がいいと思います。確かに安めですが、これをきっかけに『おかん』に来ていただき、他のメニューも注文してもらう。そういう戦略です」

山田は考え込み、やがて決断した。

「よし、2,800円でいこう。ただし、『本日限定5食』にしよう。希少感を出すんだ」

「それなら、ナナさんにインスタグラムで宣伝してもらいましょう」

金子は提案した。

ナナは喜んでその任務を引き受け、早速「本日限定5食 シェフ特製 短角牛の低温調理」の写真付き投稿を行った。写真は肉の断面が美しく見えるアングルで、思わず唾を飲みたくなるような魅力的な一枚だった。

その日の夜、予想通り新メニューは大好評で、あっという間に5食が完売した。

「これは本当に美味しい!」 「肉がとろけるようだ!」 「他の店では食べられない味だ!」

客からの絶賛の声が、厨房まで届いてきた。

「金子くん、大成功だ!」

山田は大喜びだった。村上も静かに満足げな表情を浮かべていた。

「ありがとうございます。これも田口さんの素晴らしい肉あってこそです」

金子は謙虚に答えた。

「これからどんどん新メニューを開発していこう」

山田の言葉に、金子は頷いた。低温調理器の導入は、「おかん」のメニューに新たな可能性をもたらした。

翌日、金子は村上に「低温調理器操作マニュアル」を手渡した。

「村上さんにも使い方を覚えていただけると嬉しいです」

金子の提案に、村上は少し戸惑ったが、マニュアルを受け取った。

「道具に頼りすぎるなという気持ちは変わらんが…」村上は静かに言った。「新しいものを拒むのも違うかもしれん」

「道具はあくまで道具です。使いこなすのは人間の技術と感覚…その点、村上さんは理解されていると思います」

金子の言葉に、村上は少し驚いたような表情を見せた。それは自分の言葉が返ってきたようで、思わず微笑んだ。

「ならば、使ってみるか」

村上が初めて低温調理器を操作する姿は、金子にとって感慨深いものだった。最初は慎重に、説明書を細かく読みながら設定を行う村上。しかし、一度理解すると、すぐに要領を掴んだ。さすがは長年の経験を持つプロだった。

「面白いな、これは」

村上が率直に感想を述べた。

「温度を正確に管理できるというのは、確かに料理の幅を広げる」

「ですよね!特に低温で長時間調理することで、従来の調理法では難しかった食感や味わいが実現できるんです」

金子の熱心な説明に、村上も次第に興味を示した。特に肉以外の食材への応用可能性について、二人は活発に意見を交わした。

「卵も63℃で45分調理すれば、絶妙な半熟状態になります。出汁巻き玉子にも応用できるかもしれません」

「なるほど…試してみる価値はあるな」

二人の会話は、料理人同士の創造的な対話へと発展していった。村上の伝統的な技術と知識に、金子の新しい調理法の知識が掛け合わさることで、これまでにない料理のアイデアが次々と生まれた。

「低温調理と圧力調理を組み合わせることもできます」

金子は自分の研究成果を熱心に語った。

「例えば牛すじを圧力鍋で40分調理して柔らかくした後、低温調理器で保温しながら味を染み込ませる。従来の3時間煮込むよりも、時間は大幅に短縮でき、なおかつ味わい深い仕上がりになるんです」

村上はメモを取りながら聞いていた。批判的だった彼の態度が、興味と尊重へと変わっていることを、金子は嬉しく感じた。

「金子」

村上が静かに呼びかけた。

「はい?」

「お前の料理への情熱と探究心は本物だ。低温調理という新しい技術にも、単なる流行や手間短縮ではなく、『より良い料理』を追求する姿勢が見える」

その言葉に、金子は感動した。村上からこれほど明確な評価を受けたのは初めてだった。

「ありがとうございます」

「これからも、伝統と革新のバランスを大切にしろ」

「はい!」

金子は力強く答えた。

その日以降、「おかん」の厨房には新しい風が吹き込んだ。低温調理器を中心に、様々な新メニューが次々と開発された。

「58℃3時間の牛モモ肉調理」「65℃24時間の豚バラ肉調理」「62℃1時間半の鶏むね肉調理」…金子のノートには、食材ごとの最適温度と時間が細かく記録されていった。

特に人気となったのは、「低温調理で極上の柔らかさ 鴨胸肉のロースト 山葵ソース添え」だった。58℃45分の低温調理で鴨胸肉をミディアムレアに仕上げ、皮だけをカリカリに焼き上げる二段階調理法。手擦り山葵と醤油、みりん、柚子皮で作る特製ソースとの組み合わせが絶妙だった。

「まるで高級フレンチのようだ」 「和のテイストと洋の技術の融合が素晴らしい」

客からの評価も上々で、金子の自信につながった。

田口との関係も深まり、彼からは市場では入手困難な希少部位が定期的に供給されるようになった。ザブトン、みすじ、ラムタンなど、特殊な部位を活かした料理が「おかん」の新たな魅力になっていった。

「金子さん、今度はドライエイジングした熟成肉も取り寄せてみようと思うんですよ」

田口は新しい提案をしてきた。熟成肉と低温調理の組み合わせ。それはさらなる可能性を示唆していた。

「ぜひお願いします!」

金子は目を輝かせて答えた。料理人としての探究心が、ますます高まっていくのを感じていた。

7-3:常連客との関係

「金子さん、いつもの頼むよ」

カウンターに座った中年の男性が声をかけてきた。村松さんという常連客だ。最初は村上の料理目当てだったが、最近は金子の低温調理メニューのファンになっていた。

「かしこまりました。本日は短角牛のローストステーキがおすすめです」

「おお、それにしよう。あと、いつもの出汁巻き玉子も」

「承知しました」

金子は厨房に戻り、丁寧に料理を始めた。特に常連客の注文には、一層の注意を払う。彼らは「おかん」の味の変化に敏感で、料理の良し悪しをすぐに見抜くからだ。

低温調理した短角牛を取り出し、表面を美しく焼き上げる。出汁巻き玉子も村上に教わった通りの手順で丁寧に作る。

「お待たせしました、村松さん。短角牛のローストステーキと出汁巻き玉子です」

「おお、いつも美しい盛り付けだね」

村松さんは満足げに料理を眺め、一口食べると表情が緩んだ。

「うまい!金子さん、君の料理はどんどん進化してるな」

「ありがとうございます」

金子は嬉しそうに答えた。常連客からの評価は、料理人にとって何よりの励みになる。

「ところで、田口から仕入れてるって本当かい?」

「はい、田口精肉店さんからです。ご存知なんですか?」

「ああ、あそこは目利きが確かだからね。良い肉屋を見つけたじゃないか」

村松さんとの会話は、料理の話題から地元の食材事情、そして人生談義へと発展していった。金子は料理を作る合間に、こうした常連客との会話を大切にしていた。彼らから学ぶことも多かったし、何より「おかん」の大切な支え手だったからだ。

「今日はこれを持ってきたんだ」

村松さんがバッグから小さな瓶を取り出した。

「自家製の柚子胡椒さ。山口の親戚から柚子をもらってね。良かったら料理に使ってみてくれないか」

「ありがとうございます!ぜひ使わせていただきます」

金子は感謝の気持ちを込めて瓶を受け取った。常連客からのこうした差し入れは珍しくなかった。特に金子が料理長補佐になってからは、自家栽培の野菜や果物、時には珍しい調味料などを持ってきてくれる常連も増えていた。

「村松さんの柚子胡椒、明日にでも何か料理に使ってみますね」

「楽しみにしているよ」

翌日、金子は村松さんの柚子胡椒を使った特別メニュー「熟成豚の圧力煮込み 柚子胡椒風味」を考案した。田口から仕入れた14日熟成の「森の豚」バラ肉を使用し、一晩下味をつけた後、圧力鍋で40分調理。その後、冷蔵庫で一晩熟成させ、再度温めて仕上げる。最後に村松さんの柚子胡椒を加えることで、深みのある味わいに爽やかなアクセントを加えた一品だ。

「村松さん、昨日いただいた柚子胡椒を使った料理ができました」

次に来店した村松さんに、金子は新メニューを提供した。

「おお!わざわざメニューにしてくれたのか」

村松さんは感激した様子で料理を味わった。

「これは素晴らしい!柚子胡椒の風味が、豚の旨味を引き立てている」

「気に入っていただけて嬉しいです」

この料理は、その後「村松特製柚子胡椒の熟成豚煮込み」として、隠れメニューとなった。「村松さんのおすすめで…」と密かに常連客に提供される特別料理の一つである。

同様に、常連客の石川さんの自家製梅干しを使った「石川の梅しそチキン」、山下さんの好みに合わせた「山さんの角煮」なども誕生した。これらの「常連の名を冠した隠れメニュー」は、「おかん」の新たな特色となっていった。

「今日はどなた来ましたか?」

閉店後の片付け中、金子はナナに尋ねた。

「今日は山下さん、佐々木さん、あと村松さんも夕方に…」

ナナは常連客の来店状況を詳しく報告してくれた。彼女も常連客との関係構築の重要性を理解していた。

「そうか、村松さんにはあの料理を出せなかったな。また今度」

「金子さん、すごいですね。お客様一人一人の好みを覚えてるなんて」

「それが料理人の仕事の一つだからね。お客様に喜んでもらうためには、その人を知ることが大切なんだ」

金子は「常連ノート」と呼ばれるメモ帳を大切にしていた。そこには常連客の好みや特別な記念日、アレルギー情報などが詳しく記録されていた。そのノートを参考に、その日来店した常連客の好みに合わせた料理を提案することができた。

「金子くん、常連客への対応が素晴らしいね」

山田が嬉しそうに言った。

「店の評判は、新規客の数だけでなく、常連客の満足度が大きく影響する。その点、君は本当によくやっている」

「ありがとうございます。常連のお客様は『おかん』の財産ですから」

村上も静かに頷いた。彼もまた、長年の間に多くの常連客と深い関係を築いてきた料理人だった。

ある日、村上の古い常連客である松木洋子が店を訪れた。銀座の老舗料亭「松木」の元女将で、村上の修行時代の上司だという。

「久しぶりね、村上さん」

「松木さん、お久しぶりです」

村上は珍しく丁寧な口調で応対した。彼女は村上にとって特別な存在のようだった。

「こちらが金子君?村上さんの弟子だって聞いたわ」

松木さんは金子を値踏みするような鋭い目で見た。

「はい、まだまだ未熟者ですが、村上さんに教えていただいています」

「素人上がりって本当?」

厳しい質問に、金子は正直に答えた。

「はい。以前は印刷会社に勤めていました。四十一歳からの再出発です」

松木さんは少し驚いたように目を見開き、村上を見た。

「あなたにしては珍しい選択ね」

「才能がある」

村上の短い言葉に、松木さんは興味を示した。

「それなら、料理を見せてもらおうかしら」

金子は緊張しながらも、最高の料理を作ることを決意した。田口から仕入れた特選和牛を使った低温調理の肉料理と、村上から学んだ出汁巻き玉子を中心に、松木さんのために特別コースを準備した。

「お待たせしました」

金子は丁寧に料理を運び、一つ一つの料理について説明した。松木さんは一言も発せず、ただ静かに料理を味わっていった。その表情からは何も読み取れず、金子の緊張は高まるばかりだった。

すべての料理を食べ終わった松木さんは、ようやく口を開いた。

「村上さん」

「はい」

「あなたは良い弟子を見つけたわね」

その言葉に、金子の緊張がほぐれた。

「まだまだですが、素人の強みを活かしながら、村上さんから伝統を学んでいます」

「素人だからこそ、固定観念にとらわれない発想があるのね。特に低温調理の肉料理は見事だったわ」

松木さんの評価に、金子は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「これからも村上さんの教えを大切にしなさい。でも、自分の個性も失わないこと」

「はい、肝に銘じます」

その後も、様々な常連客との出会いと交流が続いた。食品メーカーの開発部に勤める斎藤健太郎とは、低温調理の科学的側面について意見交換するようになった。魚屋の三浦健二からは、新鮮な魚の見分け方や旬の知識を教わった。

常連客一人一人との関係を大切にすることで、金子は料理人としての幅を広げていった。そして、「おかん」はますます地域に根ざした居酒屋として、その存在感を高めていった。

7-4:新メニュー共同開発

「今日は特別な打ち合わせがある」

村上が金子に告げた。料理長補佐になって三ヶ月、金子は着実に成長を続けていた。特に肉料理の技術は目覚ましく向上し、低温調理を中心とした新メニューは「おかん」の看板にもなりつつあった。

「何でしょうか?」

「『おかん』の新しい方向性を考える時が来た」

村上の言葉に、金子は身を乗り出した。

「伝統と革新の融合メニュー。本格的に開発したい」

「村上さん…」

金子は感動した。村上が自ら「革新」を口にしたのは初めてだった。

「お前の低温調理と、俺の伝統技術。それを組み合わせた新しいメニューを作ろう」

「はい!ぜひお願いします!」

金子は喜びを隠せなかった。村上との共同開発。それは弟子として最高の栄誉だった。

山田も会議に加わり、三人で新メニュー開発の方向性を議論した。

「『伝統と革新の融合メニュー』をコンセプトに、全面的にメニューを刷新しよう」

山田の提案に、金子と村上は賛成した。

「では、具体的にどんなメニューを開発しますか?」

金子が尋ねると、村上が考え込むような表情になった。

「まず、看板メニューとなる一品だ。インパクトがあり、他店にはない料理」

「肉料理がいいでしょうか?」

「ああ。田口から仕入れる特選肉を使った料理だ」

具体的なアイデア出しが始まった。金子のノートに、次々と構想が書き込まれていく。

「村上さんの伝統的な下処理と、低温調理を組み合わせる…」 「圧力調理で時間を短縮しつつ、伝統的な味付けで深みを出す…」 「素材の持ち味を最大限に活かすための、最適な温度と時間の組み合わせ…」

三人は熱心に議論を続けた。時には意見が対立することもあったが、それもまた創造的なプロセスの一部だった。

「では、第一弾として『とろける牛タン 葉山葵添え』はどうでしょう」

金子が提案した。

「牛タンを72時間熟成させた後、低温調理で63℃48時間調理。表面だけ炙って、特製の葉山葵ソースを添える…」

村上は考え込んだ後、頷いた。

「悪くない。伝統的な和の味わいと、現代的な調理法の融合だ」

「葉山葵ソースのレシピは?」

山田が尋ねた。

「それは村上さんの技術で。特に葉山葵の擦り方と、出汁との合わせ方は村上さんの方が…」

「ふむ」村上は納得した様子だった。「葉山葵の香りを最大限に活かす方法なら心当たりがある」

こうして、第一弾の「伝統と革新の融合メニュー」が決まった。

翌日から、二人は本格的な開発に取り組んだ。村上は牛タンの下処理と葉山葵ソースの開発を担当し、金子は低温調理の条件検討と仕上げの技術を担当した。

「牛タンの下処理は、まず塩で12時間漬け込み、その後洗って…」

村上の指導を受けながら、金子は細かくメモを取った。

「葉山葵は、擦るのではなく、竹製のおろし金で繊維に逆らわないように削る。そうすることで香りが立つ」

「なるほど…」

金子は村上の一つ一つの所作を丁寧に観察した。彼の手には長年の経験が染み込んでいた。無駄のない動き、的確な判断、素材への敬意…すべてが学ぶべきものだった。

一方、金子も自分の専門分野である低温調理の知識を村上に伝えた。

「牛タンは通常の調理では硬くなりがちですが、63℃で48時間の低温調理なら、コラーゲンがゆっくりとゼラチン化して、とろけるような食感になります」

村上は熱心に聞き、実際に低温調理された牛タンの食感を確かめた。

「確かに…これは通常の煮込みでは出せない食感だ」

二人の共同作業は、お互いの強みを活かし合う理想的な形で進んでいった。

開発の過程では、失敗もあった。最初の試作では牛タンが柔らかすぎてしまい、形が崩れてしまった。また、葉山葵ソースの配合も何度も調整を重ねた。

「もう少し出汁の旨味を強くした方がいいな」 「温度を61℃に下げて、時間を60時間に延ばしてみよう」

試行錯誤を繰り返し、ようやく理想の味と食感が実現した。

「これでいい」

村上が最終的に認めたとき、金子は大きな達成感を覚えた。

「『伝統と革新の融合メニュー第一弾 とろける牛タン 葉山葵添え』の完成です」

「明日から正式メニューに加えよう」

山田もこの新メニューに大きな期待を寄せていた。

「値段は2,400円。『おかん』史上最高の牛タン料理として売り出そう」

翌日からの提供開始に向けて、ナナがSNSでの宣伝を担当した。

「『伝統の技と革新の調理法が生み出す、新時代の牛タン料理』というキャッチコピーはどうでしょう?」

「いいね、それで行こう」

美しい写真と魅力的な説明文で、新メニューの告知は大きな反響を呼んだ。初日から多くの予約が入り、提供開始から3日で50食以上が売れる人気メニューとなった。

「すごい反響だ」

山田は驚きながらも嬉しそうだった。

「次は何を開発する?」

村上と金子は、さらなる融合メニューの開発に意欲を燃やした。

「次は鶏肉はどうでしょうか。『シャモロックの低温調理 特製塩麹添え』」

金子の提案に、村上も賛成した。

「塩麹の発酵の力と低温調理の精密さ。面白い組み合わせだな」

共同開発の第二弾、第三弾と、次々に新メニューが誕生していった。「熟成豚の柚子胡椒風味 圧力煮込み」「真鯛の昆布締め 低温オイル煮」など、伝統的な日本料理の技法と現代的な調理法を融合させた料理は、どれも「おかん」ならではの個性を持っていた。

「すごいですね、金子さん」

ナナが感心した様子で言った。

「村上さんとの共同開発、本当に素晴らしい料理ばかりです」

「ありがとう。でも、これは村上さんの伝統的な技術あってこそなんだ」

「でも、金子さんの革新的なアイデアも大きいと思います」

金子は照れくさそうに笑った。

「互いの良さを活かし合えているのが嬉しいよ」

村上と金子の共同開発は、二人の師弟関係をさらに深めるものとなった。最初は対立していた二人が、今では互いを尊重し合い、共に新しい料理を創り出す関係へと成長していたのだ。

ある日の閉店後、村上が静かに金子に声をかけた。

「金子」

「はい」

「共同開発、楽しいか?」

突然の質問に、金子は少し驚いた。

「はい、とても。村上さんから学べることが山ほどあります」

村上は満足そうに頷いた。

「私も…新しい発見がある」

その言葉に、金子は感動した。師匠である村上が、自分との共同作業に価値を見出してくれているのだ。

「これからも、伝統と革新の融合を追求していきましょう」

「ああ、そうだな」

村上の表情は、いつになく柔らかかった。

「おかん」のメニューは、この共同開発によって大きく進化し、常連客だけでなく新規客も増えていった。特にSNSでの評判は上々で、「伝統と革新が融合した新世代の居酒屋」として、地域を超えた人気を集めるようになった。

「金子くん、村上」

山田が嬉しそうに報告した。

「今月の売上、過去最高を記録したよ。二人の共同開発メニューの効果だ」

金子と村上は互いに視線を交わし、静かに喜びを分かち合った。

「これからもよろしくお願いします、村上さん」

「ああ、任せておけ」

師弟の絆は、美味しい料理と共に、さらに深まっていくのだった。