
1-1:倒産の知らせ
「申し訳ありません、本日をもって藤原印刷は破産いたします」
会議室に響く社長の声は、予想していたほどには震えていなかった。金子誠はパイプ椅子に座ったまま、藤原社長の言葉を静かに聞いていた。二十年間勤めた会社の終焉を、どこか他人事のように感じていた自分が不思議だった。
窓の外では三月の風が桜の枝を揺らし、まだ固く閉じた蕾が揺れている。今年の花見は誰とするのだろう、という思いが不意に脳裏をよぎった。
「我々の業界もデジタル化の波には勝てませんでした。皆さんには本当に申し訳ない」
社長の言葉を、隣に座る後輩の山口が噛みしめるように聞いている。彼はまだ二十代半ば。人生は長い。金子は自分が四十一歳であることを、急に意識した。
「金子さん…」
会議室を出る時、山口が声をかけてきた。彼の表情には不安と戸惑いが浮かんでいた。
「大丈夫ですよ。若いんだから、きっといい会社が見つかりますよ」
そう言いながら金子は、再就職先を探すのは容易ではないことを、心のどこかで理解していた。今の時代、四十代の中途採用など、どれほど厳しいものか。
「金子課長はどうするんですか?」
「そうだな…」
金子は曖昧に答えて、辞令を受け取った封筒を鞄に入れた。実のところ、彼自身にもまだ明確な展望はなかった。
昼休みになり、金子はいつもの定食屋「みその」へと足を向けた。二十年来の昼食の場所。藤原印刷に入社した初日から通っている。
「いつもの、お願いします」
カウンターに座り、そう言った瞬間、金子は違和感を覚えた。「いつも」が今日で終わりなのだ。明日からここに来る理由はない。
「はいよ、鮭の塩焼き定食ね」
店主の佐藤さんは、いつもの朗らかな声で応えた。金子の心境など知る由もない。大きな釜から湯気が立ち上り、味噌汁の香りが鼻をくすぐる。金子はその香りを深く吸い込んだ。
「どうしたの?なんか元気ないじゃない」
佐藤さんはお椀に味噌汁を注ぎながら、金子に声をかけた。定食屋の主人は、常連客の機嫌の変化に敏感だ。
「いえ…会社が、今日で終わりになりまして」
「えっ、藤原印刷が?」
佐藤さんは驚いた表情で立ち止まった。この辺りでは有名な老舗印刷会社だった。区役所の広報誌から地元の祭りのポスターまで、様々な印刷物を手がけてきた。
「時代の流れには勝てないんですよ」
金子は淡々と答えた。注がれた味噌汁から湯気が立ち昇る。いつもの香り。いつもの味。しかし、今日はどうしても美味しいと感じられなかった。
鮭の塩加減も、米の炊き具合も、漬物の歯ごたえも、すべていつも通りのはずなのに、何かが違っていた。金子はそれが自分の心理的な問題だとわかっていながらも、どうしても食事を楽しめなかった。
「次はどうするの?」
「まずは再就職ですね…」
再就職。その言葉を口にした瞬間、胃が重くなるような感覚があった。四十一歳の再就職。決して簡単なものではないことは、業界紙で何度も目にしていた。特に印刷業界は縮小傾向にある。同業他社への転職は難しいだろう。
「大変だろうけど…」佐藤さんは言葉を選ぶように間を置いた。「あんたなら大丈夫よ。真面目だしね」
その優しい言葉が、なぜか胸に刺さった。真面目であることが、今の時代にどれほどの価値があるのだろうか。金子は静かに箸を置いた。
「ごちそうさまでした」
会計を済ませ、店を出る時、佐藤さんが声をかけてきた。
「また来なよ。待ってるからね」
金子は笑顔で頷いたが、この店に再び足を運ぶことはないだろうと思っていた。
会社に戻ると、すでに多くの社員が私物を段ボール箱に詰め始めていた。金子も自分のデスクを片付け始めた。文房具、手帳、名刺ケース、写真立て…二十年の会社生活が、小さな段ボール箱一つに収まってしまうことに、なんとも言えない虚しさを感じた。
「お疲れ様でした」
最後に社長と握手を交わし、金子は会社を後にした。春の陽気とは裏腹に、心は重かった。家に帰るのも気が進まず、彼は駅前の小さな公園のベンチに腰を下ろした。
ポケットの中のスマートフォンが震えた。母からのメッセージだ。
「今日はどうだった?」
金子は返信しなかった。何と答えればいいのか、言葉が見つからなかった。
1-2:再就職の壁
「金子さん、大変申し訳ないのですが…」
面接官の言葉を聞きながら、金子は自分の膝の上で握りしめた手の汗を感じていた。今日で三社目の面接。どれも結果は同じだった。
「御社の条件には合わないということですね」
「はい…若い方を…」
面接官が言いづらそうに言葉を濁す。言外に「年齢的に」という意味が込められていることは明らかだった。金子は丁寧に一礼し、会議室を後にした。
「金子さん」
エレベーターに乗る前に、面接官が追いかけてきた。
「個人的な意見なのですが、もう少し特化したスキルを磨かれてはいかがでしょうか。印刷業界の一般的な経験だけでは…」
その言葉に金子は苦笑いを浮かべた。二十年間、特別なスキルを磨く必要性を感じたことはなかった。会社で求められる業務をこなし、時には顧客の難しい要望に応える。それだけで十分だと思っていた。しかし、今になってみればそれは単なる「仕事をこなす」だけのことだったのかもしれない。
「ありがとうございます。参考にします」
金子は丁寧に礼を述べ、エレベーターに乗り込んだ。扉が閉まる直前、面接官が申し訳なさそうな表情で立っているのが見えた。
外に出ると、春の日差しが眩しかった。金子は眩しさに目を細め、駅に向かって歩き始めた。スマートフォンの中には、次々と送られてくる求人情報が溜まっていた。ハローワークの担当者から送られてくるものだ。しかし、それらの多くは給与が以前の半分以下だったり、まったく経験のない業種だったりする。
駅前のファミリーレストランに入り、金子はコーヒーを注文した。ノートパソコンを開き、履歴書と職務経歴書を再度見直す。三週間で十七社に送った。しかし、面接まで進んだのはわずか三社。他はすべて書類選考で落とされていた。
「四十代からの再出発…簡単じゃないな」
ため息をつきながら金子は、画面に映る自分の経歴を眺めた。東大でも京大でもない、F大学経済学部。特別な資格もない。印刷会社での営業と顧客管理の経験。書き出してみれば、これといって特筆すべき点はないことに気づかされる。
「こんなこと考えたこともなかったな…」
金子は自分の職業人生を振り返った。学生時代、何か打ち込めるものがあったわけではない。強いて言えば料理部での活動が唯一の熱中できるものだった。大学の料理部はどちらかというと料理研究会のような雰囲気で、男子学生は少なかったが、金子は本格的な料理技術に興味を持っていた。特に和食の繊細な技術に魅了され、在学中に二度ほど学内コンテストで入賞したこともある。
しかし、就職活動の時に料理の道を選ぶ勇気はなかった。父親の「男が料理なんて」という言葉が頭から離れなかった。それに、料理人の世界は修行が厳しいと聞いていた。安定志向だった金子は、地元の老舗印刷会社に就職した。その選択を後悔したことはなかった。少なくとも今日までは。
コーヒーを飲み終え、金子はハローワークに向かった。週に二回は通っている場所だ。
ハローワークの中は、金子と同年代、あるいはもう少し上の年齢の男性たちで溢れていた。みな、同じような表情をしている。不安と焦り、そして諦めが入り混じったような表情だ。
「金子さん、今日はどうされました?」
担当の佐々木さんが声をかけてきた。三十代半ばの女性で、いつも明るい表情を心がけているようだが、今日は少し疲れた様子だった。
「先日の面接の結果を聞きに来ました」
「あぁ、あの広告代理店ですね。結果は…」
佐々木さんはモニターを確認し、小さく首を振った。その仕草だけで結果は明らかだった。
「やはりダメでしたか」
「残念ながら…年齢的な問題と、デジタルマーケティングの経験不足という理由でした」
デジタルマーケティング。聞き慣れない言葉だった。印刷物の営業と何が違うのか、今ひとつ理解できていなかった。
「今の時代、完全なペーパーレス化は難しいと思うんですけどねぇ」
そう言いながら佐々木さんは、新しい求人票を数枚金子に渡した。
「こちらは倉庫管理の仕事です。あちらは警備員。もう一つは小売店の店員です。いずれも正社員ではなく契約社員ですが…」
金子はそれらの求人票に目を通した。どれも給与は以前の半分以下。契約期間も一年だ。
「ご家族はいらっしゃいましたよね?」
「いえ、独身です」
「そうでしたか。すみません」佐々木さんは少し困ったように笑った。「でしたら、少し視野を広げて、地方での仕事も検討されてはいかがでしょう?」
地方。金子は考えたこともなかった。生まれてからずっとこの街で生きてきた。両親も近くに住んでいる。友人も、知り合いも、すべてここにいる。
「検討します」
そう言いながらも、金子の心は重かった。地方に行くということは、この街での人生に一旦ピリオドを打つということだ。それは彼にとって、あまりにも大きな決断だった。
ハローワークを出て、金子は再び街をぶらつき始めた。行き先も決めず、ただ歩く。いつの間にか、かつての取引先だった印刷会社の前に立っていた。そこもすでに廃業していた。シャッターが下りた店舗の前で立ち尽くす金子の姿は、どこか寂しげだった。
スマートフォンが鳴った。今度は父からの電話だ。金子は少し躊躇したが、結局電話に出た。
「もしもし、父さん」
「どうだ、仕事は見つかったか?」
いつものように単刀直入な質問。金子の父、哲夫は元地方公務員。安定と堅実さを何よりも重んじる人だった。
「まだです。面接はいくつか受けていますが…」
「早く見つけないと、貯金も減るだろう。うちに戻ってくるか?」
その提案は、金子にとって最後の手段だった。実家に戻るということは、四十一歳にして挫折を認めることのように思えた。しかし、このまま貯金を切り崩し続ければ、近いうちに生活が立ち行かなくなるのは明らかだった。
「少し考えさせてください」
「そうか。まぁ、部屋はそのままだからな。いつでも戻ってこい」
その言葉に、わずかな安堵と共に深い敗北感を覚えた。電話を切り、金子は空を見上げた。雲一つない青空。しかし、彼の心は曇っていた。
1-3:実家での居場所のなさ
「ただいま」
金子が実家の玄関を開けると、懐かしい香りが鼻をついた。母の作る夕食の匂いだ。二十年ぶりに実家で暮らすことになった金子を、母・和子は温かく迎えてくれた。
「おかえり。晩ごはんできてるわよ」
リビングには父・哲夫の姿があった。テレビのニュース番組を見ながら、缶ビールを飲んでいる。金子が帰ってきたことに気づいても、特に何も言わない。それが父親の性格だった。
「今日はハンバーグよ。昔、誠が好きだったでしょ」
母は嬉しそうに言った。確かに子供の頃、金子は母の作るハンバーグが大好きだった。しかし今の彼は、その味に物足りなさを感じていた。もう少し香辛料を効かせて、玉ねぎはもっと細かく刻んで…そんなことを考えながらも、金子は黙って食べた。
「仕事の方は?」
食事の途中、父が唐突に尋ねた。それは金子が一番答えたくない質問だった。
「まだです。明日も面接があります」
「そうか」
父はそれだけ言って、また黙り込んだ。その沈黙が、金子には重く感じられた。「早く仕事を見つけろ」という無言のプレッシャーのようだった。
「無理しないでね」
母が気を利かせて声をかけてきた。しかし、その優しさが逆に居たたまれなさを感じさせた。四十一歳の男が、親に心配されるという現実。
「俺、片付けるよ」
金子は食事を終えると、自ら食器を下げた。それは母への感謝の気持ちでもあったが、父との沈黙の時間から逃れるためでもあった。
台所で食器を洗いながら、金子は母の調理器具に目を留めた。これといって特別なものはない。ごく普通の家庭用フライパンと鍋。包丁もホームセンターで買えるような一般的なものだ。
「何か欲しいものある?」
母が台所に入ってきて尋ねた。
「いや、何でもないよ」
「そう?なんだか包丁をじっと見てたから」
金子は少し驚いた。母は相変わらず観察力が鋭い。
「別に…ただ、もっといい包丁があれば料理も変わるだろうなって」
「あら、誠も料理するの?」
「たまにね」
その「たまに」という言葉は嘘だった。金子は一人暮らしの間、ほぼ毎日自炊していた。特に休日は一日中キッチンに立ち、様々な料理に挑戦することもあった。しかし、その趣味を家族に話したことはなかった。特に父親には、絶対に知られたくなかった。
「男の料理なんて」と一蹴されることが、容易に想像できたからだ。
その夜、金子は自分の部屋で横になっていた。壁には高校時代の野球のポスターがそのまま貼られている。二十年以上前から時間が止まったような空間だった。
金子はスマートフォンを取り出し、料理の動画を見始めた。静かに、音量を最小にして。それは彼の密かな楽しみだった。特に和食の職人技を捉えた動画は、何度見ても飽きなかった。包丁の使い方、火加減の調整、盛り付けの美学…それらを見ているうちに、日中の重苦しさが少しずつ和らいでいくのを感じた。
ふと、金子は自分の鞄に手を伸ばした。中から取り出したのは、A5サイズの黒いノート。開くと、そこには整然と書かれた料理のレシピやメモが並んでいた。温度と時間の関係図、食材の組み合わせ表、調理器具の比較メモ…。これは彼の料理研究ノートだった。
「明日の面接が終わったら…」
金子は小さく呟いた。明日の面接が終われば、夜に何か作ってみようと思った。この家の台所は使いづらいが、それでも料理する喜びは変わらないはずだ。
翌朝、金子は早起きして家を出た。面接は午前10時から。場所は電車で30分ほどのオフィス街だった。
「行ってきます」
朝食を済ませ、玄関に向かう金子に、母が声をかけた。
「頑張ってね」
父は既に出かけた後だった。元公務員の彼は、退職後も地域のボランティア活動に積極的に参加していた。
面接は予想通りの結果だった。「検討して連絡します」という言葉の裏に、不採用の意思を感じ取るのは容易だった。
帰りの電車の中で、金子は途方に暮れていた。このままでは先が見えない。実家に居候し続けるわけにもいかない。かといって、これまでの経験とまったく関係のない分野に飛び込む勇気もない。
「どうすればいいんだ…」
呟きながら、金子はスマートフォンの画面を眺めていた。料理アプリを開き、今夜作るかもしれない料理のレシピを見ていた。それが唯一の気晴らしだった。
家に帰ると、母はまだ買い物に出かけていたようで、家には誰もいなかった。静かな家の中で、金子は台所に立った。冷蔵庫を開け、中の食材を確認する。鶏むね肉、大根、人参、玉ねぎ…基本的な食材は揃っている。
「よし、これで作れるな」
金子は袖をまくり、調理の準備を始めた。まず、鶏むね肉を均一な厚さに切り分ける。次に、野菜を切る。母の包丁は少し切れ味が悪かったが、それでも金子の手さばきは確かだった。
調理を始めてしばらくすると、金子の表情が変わっていった。眉間の皺が消え、集中した穏やかな表情になる。まるで別人のようだった。玉ねぎを炒める音と香りが台所に広がり、金子の心を少しずつ解きほぐしていった。
「何作ってるの?」
気づけば母が帰ってきていた。買い物袋を持ったまま、驚いた様子で台所に立っている。
「あ、ちょっと…夕飯の準備を」
「あら、助かるわ。でも、誠が料理するなんて珍しいわね」
「大学の時、料理部だったんだ」
「そうだったわね。すっかり忘れてたわ」
母は買い物袋を置き、金子の調理を眺め始めた。
「上手ね。包丁の使い方が違うわ」
「まぁ、ちょっとした趣味みたいなものだよ」
金子はそう答えながらも、内心では誇らしさを感じていた。これが自分の得意なことの一つだと、久しぶりに実感していた。
「実は…」
金子は言いかけたが、その時、玄関のドアが開く音がした。父が帰ってきたのだ。金子は急いで包丁を置き、エプロンを外した。父に料理している姿を見られたくなかった。
「ただいま」
リビングに入ってきた父は、台所の様子を見て少し驚いた表情を浮かべた。
「なんだ、料理でもしてたのか」
「ちょっと手伝っただけです」
金子はそう答え、そそくさと自分の部屋に向かった。閉じたドアの向こうから、母の声が聞こえた。
「誠、料理上手よ。大学の時に料理部だったんですって」
父の返事は聞こえなかった。しかし、金子は想像できた。「男が料理なんて」という言葉が、父の口から出るのを。
その夜、一家で食卓を囲んだ時、父は金子の料理に特に何も言わなかった。黙々と食べるだけだった。しかし、最後に一言、「悪くない」と言った。それだけで、金子の心は少し軽くなった。
食事の後、金子は自室に戻り、再び料理の動画を見始めた。明日も面接がある。しかし、もはや期待はしていなかった。このままでは先が見えない。何か、別の道を考えるべきなのかもしれない。
ふと、学生時代のことを思い出した。料理コンテストで入賞した時の喜び。包丁を握る時の安心感。料理を通じて感じる達成感。それらは、印刷会社での二十年間では感じられなかった感情だった。
「もしかしたら…」
金子は考え始めた。この機会に、本当にやりたかったことに挑戦してみるのはどうだろうか。四十一歳。遅すぎるかもしれない。しかし、このまま何もしなければ、後悔だけが残るだろう。
彼はノートを開き、新しいページに何かを書き始めた。それは「新しい挑戦」というタイトルのページだった。
1-4:居酒屋「おかん」
「金子君!久しぶり!元気だった?」
駅前の喫茶店で、金子は旧知の取引先だった山田と向かい合っていた。山田浩二、五十歳。かつては印刷会社の営業だったが、十年前に飲食業に転身し、今では地元で人気の居酒屋「おかん」を経営している。
「まぁ、なんとか」
金子は苦笑いを浮かべた。山田からの突然の連絡で、こうして会うことになった。藤原印刷の倒産を知った山田が、気にかけてくれたのだ。
「藤原印刷がなくなるなんて、寂しいねぇ」
山田はコーヒーをすすりながら言った。彼の顔には十年の歳月が刻まれていたが、表情は相変わらず朗らかだった。
「山田さんは、見る目があったんですね。早めに業界を離れて」
「いやいや、単なる運だよ。それに、飲食業も楽じゃない。でも、人の笑顔が直接見られるのはいいね」
山田は目を細めた。その表情には充実感があった。
「で、金子君は次の仕事は決まったの?」
「いえ、まだ…」
金子は正直に答えた。すでに六社の面接を受けたが、どこも不採用だった。もはや印刷業界での再就職は諦めつつあった。
「そうか…」
山田は少し考え込む様子を見せた。そして、決心したように言った。
「実は、ちょっと話があるんだ」
「話というと?」
「うちでバイトしてみない?」
「えっ?」
金子は驚いて声を上げた。予想外の提案だった。
「『おかん』でバイト、ですか?」
「ああ。最近、客足が増えてきてね。特に週末は人手が足りないんだ。学生のバイトも来てくれてるけど、もう少しベテランが欲しくてさ」
金子は戸惑いを隠せなかった。居酒屋のバイト。四十一歳にして、アルバイトか。それも、まったく経験のない飲食業で。
「いや、でも僕は接客の経験も…」
「大丈夫、大丈夫。金子君なら教えればすぐに覚えるよ。それに、印刷会社の営業なら接客には慣れてるだろ?」
確かに、顧客対応の経験はあった。しかし、居酒屋の接客は別物だ。ましてや料理の提供など、まったく未知の領域だった。
「給料は時給1,200円。週に3〜4日、夕方から閉店までの勤務。どう?」
山田の表情は真剣だった。本気で誘っているのだとわかった。
金子は内心、複雑な思いを抱いていた。一方では、アルバイトという立場への抵抗感。これまでのキャリアや自尊心が許さない気がした。しかし他方では、何か新しいことを始めるチャンスかもしれないという期待感もあった。特に、料理に関わる仕事という点は、心のどこかで惹かれるものがあった。
「少し考えさせてください」
「もちろん。でも、早めに決めてくれるとありがたいな。本当に人手が足りないんだ」
会話の後、金子は一人で街を歩いた。夕暮れ時の商店街は、帰宅する人々で賑わっていた。ふと、足を止めた先は「おかん」の前だった。
店の外観は特別目立つものではなかった。古い木造の二階建て、一階が居酒屋になっている。看板には「おかん」の文字と「家庭の味」というキャッチコピーが書かれていた。
窓から中を覗くと、すでに数組の客が食事を楽しんでいる様子が見えた。カウンター席では、料理人らしき男性が料理を作っている。その手さばきに、金子は思わず見入ってしまった。
「見学する?」
突然、背後から声がした。振り返ると、山田が立っていた。喫茶店で別れた後、彼もこちらに戻ってきたようだった。
「いえ、ちょっと…」
「せっかくだから、中を見ていってよ」
断る間もなく、山田は金子を店内に案内した。
「おかん」の内装は、どこか懐かしい雰囲気だった。木のカウンターとテーブル、暖かみのある照明。壁には地元の古い写真が飾られている。
「ここが厨房」
山田は金子を厨房の入り口に連れていった。そこでは、先ほど窓から見た料理人が黙々と料理を作っていた。五十代半ばくらいの男性で、無駄のない動きが印象的だった。
「村上さん、こちらは金子さん。前に話した人だよ」
料理人は一瞬、金子を見上げたが、特に何も言わずに調理に戻った。
「村上さんは口は悪いけど、腕はいいんだ。うちの看板料理人さ」
金子は黙って頷いた。村上の仕事ぶりは、見ているだけで引き込まれるものがあった。包丁の使い方、火加減の調整、盛り付けまで、すべてが美しく洗練されていた。
「他にも、ホールにはナナちゃんという女子大生や、田中くんという常連バイトがいるよ。みんないい人たちだ」
山田の説明を聞きながら、金子は厨房の設備に目を向けていた。プロ用のガスコンロ、整然と並べられた調理器具、壁にかけられた様々な包丁…どれも使い込まれた道具だが、大切に手入れされている様子がわかった。
「どう?興味わいた?」
山田の問いかけに、金子は迷いながらも答えた。
「実は…料理には少し興味があるんです」
「そうなの?それは聞いてなかったな」
「大学の時、料理部で…」
その言葉に、厨房の村上がちらりと金子を見た。一瞬の間があり、再び調理に戻る。しかし、その一瞬の視線に、何か興味が示されたような気がした。
「それは好都合だ!まずはホールからだけど、将来的には厨房のヘルプもあるかもしれないよ」
山田の言葉に、金子の心が動いた。厨房で料理をする可能性。それは密かな憧れだった。
「じゃあ、やってみます」
言葉が口から出た時、金子自身が一番驚いた。しかし、言ってしまった以上、引き下がるわけにはいかない。
「やった!じゃあ、明日から来れる?まずは見習いからだけど」
「はい、大丈夫です」
金子は自分の決断に、不思議な高揚感を覚えていた。
帰り際、もう一度厨房を覗くと、村上が金子に向かって小さく頷いたように見えた。それが歓迎の意味なのか、単なる気のせいなのかはわからなかった。
家に帰ると、母が出迎えてくれた。
「どうだったの?山田さんとの話は」
「実は…バイトすることになりました」
「バイト?」
母の驚いた表情を見て、金子は少し気まずくなった。一家の長男が、四十一歳にしてアルバイトというのは、確かに異例だった。
「居酒屋『おかん』でのバイトです。山田さんが経営している店で」
「そう…」
母は複雑な表情を浮かべながらも、「頑張ってね」と言ってくれた。その夜、父には話さなかった。明日の朝、改めて伝えようと思った。
部屋に戻った金子は、久しぶりに心が軽くなるのを感じた。明日から新しい生活が始まる。全くの未知の世界だが、少なくとも料理に関われるという点では、密かな楽しみもあった。
ベッドに横になり、天井を見つめながら、金子は思った。
「この先どうなるかわからないけど…一歩踏み出してみよう」
それは小さな一歩だが、彼にとっては大きな決断だった。二十年間の印刷会社での生活から、全く別の世界へ。四十一歳からの新たな挑戦の始まりだった。
窓の外では、桜の枝が風に揺れていた。もうすぐ開花の時期だ。金子の心にも、小さな蕾が膨らみ始めていた。